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 老いて後に(禅に学ぶ4)


 禅寺には山門がある。これは三門とも記される。この三門とは「戎・定・慧(かい・じょう・え)」の三学を意味すると言われる。この三学はいずれの仏教においても修行の根本とされている。
 ではこの三学とは如何なるものか解説する(禅の心:竹村牧男)
「戎とは修行中に自ら心して守るべきことをいう。戒律という言葉があるが、この律は共同体の生活上の規則を意味するものに対応するもので、戎は自らの修行のために自らに課すものである。
 どういうことかというと、身体的行為・言語的行為・精神的行為の三方面において(身・語・意の三業)、正しいあり方を守ることである。とすると、三学とは、結局生活を規則正しく、求道の日々に最も相応しくあるように工夫していく(戎)とともに、心を集注・統一して(定)、事理を観察・究明していく(慧)ことということができる。この三学こそが、悟道への門となるのである」
 とこのように実践するには、今の自分でも将来においても難門となり、潜り得ない門である。禅僧になるわけではないので、牧村氏の論は「禅へのアプローチ」として、わたしにはハードルが高すぎる。
 禅の思想について次の説を紹介して、さらに論を深めることにしよう。
 鈴木大拙氏によれば、傅大士(ふだいし[497~569]中国、南北朝時代の在俗仏教者。後世、経蔵などにその像が置かれ、俗に「笑い仏」といわれる)の褐
空手把鋤頭  空手にして鋤頭を把り
歩行騎水牛  歩行して水牛に騎る
人従橋上過  人、橋上より過ぐれば、
橋流水不流  橋は流れて水は流れず
を上げて、禅の非論理性について、以下のように語っている。
 「我々の常識からすれば、この詩は不合理と矛盾の甚だしいものであって、批評家は禅を以って不合理、乱雑、そして普通の推理の逸脱したものとみなすだろう。だが禅は不変不易であり、それは物に対する常識的観察法では究極なものとはしない。我々が真理に徹底しえないのは、論理的解釈に執着する余りの結果である。もし我々が人生に徹底しようとするのなら、今まで大切にしてきた推理法を捨てなければならない。つまり論理並びに一方に偏した日常語法から離れた新たな観察法を身に着けねばならない。一見矛盾に満ちているような禅の世界においては「空手に鍬を持たねばならないし、脚下に流れているのは水ではなく、それは橋であると主張する。このような禅の内的意義の提示は、果たして門外者の心を混乱に陥れるほか何を教えようというのか。その答えは簡単である。禅は人生の神秘と自然の秘密を透視するために、全く新しい観点を得ることが必須なのである。禅は普通の論理的推理過程を通しては、到底心の奥底にある精神的要求に応える満足は得られないというのが結論である」
 本稿の締め括りとして道元の「本来面目」を紹介し、道元の残した言葉(公案)の跡をたどることにしよう。
 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり
 本来というのは本々とか本物の本のこと。面目は、本来の姿、真実の姿という意味。道元は、真実の姿というのは、春は花に象徴され、夏はカッコウやホトトギスに象徴され、秋は月の美しさ、冬は雪の降る姿「季節それぞれの姿が真実を表している」と 詠んでいる。禅の世界では「今生きているこの時」を見つめる。「昨日でもなく、明日でもなく、今自分が生きている刻々と移りゆく"今この時"。移ろいゆく時間と、そして周りの世界。これらと自分を対峙させる」ということであるから、この歌は悟りについて詠んでいるのである。
 禅僧良寛はこの歌を受け「形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみじ葉」と詠んでいる。これも優美な自然を残そうというのではなく、道元の「本来面目」を形見として伝えようとする意図が汲み取れる。「後の人よ、本来の面目に目覚めなさい。その道を歩みなさい」と語りかけている。


 


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