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 老いて後に(禅に学ぶ5)

 道元の主著「正法眼蔵」の中核をなすのが「現成公案(げんじょうこうあん)」で、道元自身による仏道世界への導入の書と言われている。現成公案とはどういうものかというと、鏡島元隆氏によれば『公案という言葉は、政府の公文書という意味があり、これは憲法のようにやたらに文字を変えたり、動かすことができない文書で、禅においては公案とは動かすことのできない真理、仏法の悟りという意味で使っていた。中国の禅僧大慧(だいえ)が漢文で「正法眼蔵」を記しており、これは仏法の悟りに導くために、古人がいろいろと工夫して、作ったルールのようなものを集めたのが古則公案(661則)である。これに対し道元は現成公案という言葉を使い 「人の目の前にあらわれ、成立しているものはすべて動かすことのできない真理、仏法の悟りである」との解釈を示している。古則公案が限られた数に縛られているのを、道元が解放したところに意義がある。
 現成公案の思想の核心にある一節が次に示す言葉である「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
これをネルケ無方氏の英語解釈で示すと解りやすくなるので、英語併記で示すことにする。
To study the way of awakening means to study youesef.<目覚めの道を学ぶことは、あなた自身の学びを意味する>
To study yourself means to forget yourself. To forget yourself means to be actualized by the ten thousand things.
<あなたの学びは、あなた自身を忘れることだ。あなた自身を忘れるということは、よろずの事によって行われる、あなた自身の現実だ>
Being actualized by the ten thousand things,means to drop your own body and mind,as well as the body and mind of others.
<よろずの事による、あなた自身の実現はつまり、あなたの体と心の手放し(解放?)である。そして人の体と心の手放しでもある>
さらに詳細に一文節ごとに理解するために、頼住光子氏の解説を紹介しておこう。
「自己をならう」とは、自分とは何かを真の意味で理解し、その自己のあり方に徹していくことである。仏道修行とは「己事究明 」にあるといわれる。これは真の自己のあり方に目覚めることに他ならないと道元は言うのである。
「自己をわするる」とは、道元の「本来の自己とは何か」という問に対する答えである。これは何も分からなくなるという呆けてしまうことでも、何かに夢中になって我を忘れることでもない。その真意は固定化された自己を忘れる、それに拘らなくなるということである。
 では如何にしてこれを可能にするのか。これに対する答えが「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」という二つの文である。
 まず「万法に証せらるる」の「証」は「さとり」である。あらゆることにさとらされるということは、自分に対する執着がない「自己をわするる」状態なっている、というのだ。
 このことは、目的が同時に基盤をなす。つまり本来あるところのものになるという循環構造を意味する。道元はこの循環構造について「仏法においては、修行と「さとり」とは分かれておらず一体のものである。これを「修証一等」と言い表す。「さとり」の基盤の上でなされる修行は、それ自体がすでに真理全体を明らかなものとしているので、スタートもゴールもない果てしないものである。
 次回は仏道修行について道元はどう捉えているかについて考察してみる。

 



 


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