ひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)が修行のすべてと言ってもよい禅の世界。そこには日常生活における所作に厳しい掟(しつけ)がある。それを見ると、洗面や歯磨きからはじまり日常の立居振舞にまでおよぶ。細かい点についても、次のような記述がある「静かな部屋を選ぶ。節度を守った食事をとる。一切の雑念を止めて坐る」とある。
坐禅には二つの方式があり、「結跏趺坐(けっかふざ)」が本式、「半跏趺坐」が略式である。その形とはどんなものかと言うと、結跏趺坐は、右の足を左のももの上におき、左の足をのももの上におく。半跏趺坐は、ただ左の足を右のももの上におくだけでよい(試したが私は半跏趺坐しかできなかった)。両手は右手を左足首の上におき、左の手のひらを右の手のひらの上に重ねる。姿勢を正し、耳と肩、鼻と臍が垂直線上にあるようにする。口をしめ、目をあけ、そして鼻から静かに深く呼吸する。
この姿勢を保ってパソコンに向かって仕事をしてみたが、結構難しい。そもそも坐禅を組んで仕事すること自体が一切の雑念を払うどころか、雑念そのものだから、一挙両得とはいかないものだ。
道元は『普勧坐禅儀(坐禅のマニュアル)』を書くことによって、仏教の本質が只管打坐、すなわちひたすら徹底的に座ることをおいてほかにないことを、我が国において最初に、そして力強く宣言したのである。
この「只管打坐」には二通りの解釈がある。それは只管と打坐を分けて解釈することである。一般の人には難しい坐禅も、只管のみに限れば十分実行可能のようの思える。すなわち「只管」とは現成公案の教えからして、一番大切なことは、「いま」「ここ」にあらわれた一事一行をゆるがせにしないことであり、「いま」「ここ」の一事一行に全精魂を込めることであるとしている。この説では道元の教えは「打坐の形式」にはなく「只管の精神」にあるという解釈である。
道元は「今の時」という言葉を「而今(にこん)」という表現で示している。例えば次のような件(くだり)である。
「時もし去来の相にあらずは、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある。これ有時なり。(現代訳:頼住光子氏 )時がもし流れるものとして見えていなければ、山に登って見渡すその時は、有時の『而今』である。時がもし流れるものとして見えていたとしても、『自己』には、そもそも有時の『而今』があるのだから流れると見える時もまた『有時』(の『而今』)である。この一節については、道元は現在のこの一瞬は、自己によって主体的に把握されることで成り立つとする。この把握点としての有時は、一定の方向へと流れる時間を超えたものという意味において、非連続的なものでもある。また引用文中の「去来の相」については、これは文字通り来て去るということで、切れ目なく流れ去る時間である。これは、間断なく流れるという点で、ある種の連続性を保っている。「去来」とは、日常世界に身を置く人が、時の連続性を表象する際に使う概念である。しかし、道元は「去来」という形での時の連続性を否定すると論じている」
建功寺(神奈川県)枡野俊明住職は著書「禅的シンプル仕事術」の中で「『而今』について、こう書いている。「『而今』という禅語は、命の真実は『今』にしかないことを説いた言葉です。私たちは『今』この瞬間にしか生きることはできません。昨日の自分はすでに死んでいるのと同じ。明日生きているという保証もないのです。であるからこそ、『今』という時期を大切に生きることが大事なのです」と説明している。しかし、時の連続性と非連続性との関連には触れていない。氏の言わんとすることは分かりやすいが、時間の考え方が絡むとどうも難解なものになってしまって、勉強不足なのだろうが、何となく引っかかるところがある。
私にとっては禅を自分の都合のいいように解釈している面が多いが(当然だが)、「今この瞬間に=Right now」は現在を生きるうえの座右の銘である。それ故に「而今」という言葉との出会いが、禅の思想に惹かれた動機となり、こうして「禅に学ぶ」ことを老後の課題としているのである。しばらく道元の『現成公案』についてさらなる考察を続けることとしたい。