『 正法眼蔵』全八十七巻において『現成公案』が何故トップに置かれたかと言う経緯を見るに、この書は俗弟子に与えたもので、道元自身による仏道世界への導入の書と言う意味合いを持っている。この配置は道元がその晩年に配列を決めたと書かれている。このことは『現成公案』が、小説のように時系列的に書かれたものではなく、各公案の中から「禅道導入の書」として最も相応しいと判断したからである。英文併記の参考としている「ネルケ無方」氏の『 道元を逆輸入する』は逆読み形式で書かれている、つまり冒頭の文節は最後に置かれている。この文節がこの書のエッセンスの部分に当たるわけで、前置きの部分から入るのが、読み解く近道と考えたからであろう。
これから『現成公案』を読み解いていく時に、あっちこっちの文節や言葉に脈絡なく飛び出していくことも予想される。現在こうして書いている稿も「第8稿」に入るが、知り合いから難解で読みずらいという指摘も受けている。
これから最初の文節の読み解きに入るが、できるだけ現代文として、分かり易い表現を試みるつもりだ。
先ずは文章に多く見られる禅語で「仏性」と「法性」について説明する。
仏教では自分は自分であるという本質を「仏性(ぶっしょう)」といい、物は物であるという本質を「法性(ほっしょう)」という言葉で表している。ところが道元禅では仏性と法性の区別はない。現成公案においては、存在と時間と自己とは一つであるからである。それを示す例として『涅槃経(ねはんきょう)』の「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつゆうぶっしょう)」をどう読むかに違いが出ている。仏教では「一切の衆生は仏性を有する」と読むが、道元禅では「一切は衆生なり、悉有なり、仏性なり」と読み替えているところに見られる。
そこで最初の文節「諸法の仏性なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」に戻ると、これも難しいフレーズである。言葉(単語)ひとつひとつが広い意味を含んでいる。我々は普段わけも分からず、法事などでお経を読ませられるが、これは見慣れない言葉の羅列としか見えないのと同レベルである。
そこでここでも前節で示したように語句の意味するところを明確にして一歩一歩進むことにしよう。
冒頭部分の「諸法」というのは、この世界に存在しているもののことで「あらゆるものごと」という言葉である。
次の「仏法」は仏道修行の行われる舞台としての世界を意味しており「ありのまま」ということである。この二つを結びつけると「諸法の仏性なる時節」は「「あらゆるものごとのありのままの姿に目覚めた時」と解釈できる。
続く「すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」は、頼住氏によれば「脱すべきものとしての迷いと目指すべきものとしての悟りという分かれ目があり、迷いを「さとり」へと転換するための修行がある。衆生の現実として生と死があり、修行し開悟成道したもろもろの仏があり、それを目指す衆生がある」と解説している。
まだまだ生半可な状態だが、深く追及すると更に迷路にはまり込みそうなので、今回は現成公案冒頭の第一文節の解明はここまでにとどめ、次回は第二文節に進むこととしたい。