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 『新』老いて後に「禅を知る」(序)


 最初に「禅とは何か」という問いに答える。ここでは禅の研究者二人の言葉を借りて説明する。
 鈴木大拙氏は「禅は心の全部である」と記しているが、これでは十分な理解は得られない。も少し踏み込んで読むと「禅のうちには知的要素があるとも言えるが、知的分析の方法によっては何ら我々に教えるところはない」とし、続けて「それは皆人々自身の心から出るものであって、禅は単に道を示すに過ぎない」としている。
 その言葉を裏付けるように「禅は哲学でも宗教でもない。禅の本質は洞察によって心の本性に達し、心そのものを見出し、自ら心の主となるところにある。禅を修行するということは、実在の理由を達観するために人の心眼を開くところにある」と述べている。我々凡人が心眼を開くことなどできるのだろうか。
 この問いには「禅は日常生活そのものの事実を認めることによって最も平凡な、そして最も平穏な、普通人の生活裡に現れているからである。更に加えて、禅は文字も、言葉も、また経典をも用いない。ただ直截に真そのものの核心を掴み、以てそこに安住の地を求めることを勧める」としている。
 「文字も、言葉も、また経典をも用いない」と言われると、禅を知ろうと文献を漁り、その思想を理解しようと努める者には、何か突き放された気分になってしまう。禅は「只管打坐」心を空にしてひたすら坐禅を組むことたど、後に出てくるが、「悟り」を求めるのではなく、その過程で何を学べばよいかという「問い」には答えてくれない。俗人である私には特に「直截に真そのものの核心を掴み、・・」という状態に達する自信は全くない。
 これらのことを踏まえ、次回は頼住光子氏の「道元の思想」をもとに、更に探求していくことにする。
(2017.10.21)


 









 


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