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 『新』老いて後に「禅を知る」(序つづき1)

 
 今回は一歩進めて「道元の思想」をもとに、禅の深奥に迫ろうという試みをすることにする。
 前回紹介したように頼住光子氏の研究を参考にさせていただいて、論を進めることとしたい。
 ここでは禅の中でも「道元禅」に絞って「禅とは何か」という問いに答えていくことになる。
 仏教においては無常という言葉がよく使われる。この無常というのはどのような状態なのかについて、頼住氏は「この世の一切のものは生まれ出れば、止まることなく移り変わり、永遠に不変なものではないということである」
 ここで古文の中に記載された無常についていくつか紹介する。先ず『平家物語』の記述では「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。
 次に兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』「序段.つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。
 そして、鴨長明の『方丈記』「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」。
 これらの文学は「万物は留まることなく移りゆくという、仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされている」。
 このように無常観とは何かに執着して、それを固定的に捉えることを否定している。自己も対象もすべて移り変わり行くものであるから、一つ事に執着することは徒に人の苦しさ増すばかりである。「老病死」という事実が示すように、その同一性とはそもそも成立不可能なものであると仏教では捉えている。
 仏教から見た世俗世界は、本来成立するはずのないものを、あたかも成立するかのように前提にして成り立っている。これを別の言葉で表現するなら「世俗世界では老病死は継続した時間の中で進行している」ということになる。
 例示したように仏教的な無常観に共通する思想は『空』に代表される。ここで「空」と「無」の違いとはどこで見分けるかと考える人は多いと思う。そこでネットで調べると次のような説明に出合ったので紹介する。
「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)という言葉。宋代随一の詩人でありすぐれた禅者でもあった蘇東坡の言葉。これは空の教えを説いている。無一物とは何も存在しないということだが、何ものにも執着しない境地に達することができると、大いなる世界が開けるという趣旨の言葉がある。
 ここで「無」と「空」の違いについて簡単に説明すると、たとえば水の入っていない 空(から)のコップがあるとする。この場合、「コップは空」だ。でも、「コップは無(む)」とはいえない。
 コップが空(から)ということと、コップが無(な)いということとは別のこと。「無」と「空」の違いはこれで明らかであろう。 (エンサイクロペディア空海より)」
 次回は「空」の思想について、さらに詳しく考察する。(2017.10.30)


 









 


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