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 『新』老いて後に「禅を知る」(序つづき2)

  
 前回に引き続き「空」とは何かについて、石飛道子氏の説によれば、「空」は理論か論理かという命題について、論理とは「ものの見方」のことである。そして理論というのは、「ものの見方」を用いて作られる具体的な思想や哲学のことと考えられる。「空」という言葉の意味は「中身は空っぽ」ということである。この「中身は空っぽ」を貫く姿勢が「空」の論理ということになる。
 ここで再び頼住光子氏の説に戻すと、「空」論理は仏教の「無常説」をさらに深化したものといえる。無常説は人間誰しも直面せざるを得ない死や老い、別離といった現象から出発し、人間のみならず全世界の全事物事象が無常であるという理にまで高められたものであった。そのことを踏まえてさらに、ではなぜ全事物事象が無常であるかという問いから出発するのが「空」の見方なのである。「空」とは「中身は空っぽ」すなわち「無自性」である。仏教の根本教説(大乗仏教)は、一切が「空」であるという所にある。それ故日本の文化的伝統においては、世の中の虚しさ、人生のはかなさを教えるものと受け取られた。そこでは厭世的孤独感、生存の不安感、虚無的気分という意味においてニヒリズム的な色彩を帯びていると言うことができる。しかし、それは一面ではあるが、本筋は「仏教の無常観や「空」の論理は、あくまでも世界の実相についての冷徹な認識である」としている。
 同氏はこの文節のまとめにおいて、次のように語っている「仏教の無常観は、われわれ現代人の心の奥底に巣食うニヒリズムに対して、何らかの示唆を与えることも可能なのではないか。われわれが道元そして仏教の世界認識として期待できるのは、まさにこの点ではないかと考える」
 印度発祥の原始的大乗仏教においては、「空」は全否定の意味を持つということは前述の通りである。
 宋の時代の中国からそれを持ちかえった道元は、「空」の論理をその「正法眼蔵」の中でどのように解明していくのだろうか。以降その第一巻の「現成公案」で読み解いていくこととする。(2017.11.7)



 









 


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