私が小学校に上がったのは終戦の年。一学期を田舎の尋常小学校で過ごした。
当時は学期ごとに通信簿といって成績表が渡された。成績の高低は甲、乙、丙という表示で評価された。現代でも契約書などに「株式会社A(以下甲という)と株式会社B(以下乙という)は契約を締結した」 という書き方をよく見かけると思う。この分類は暦の十干(じっかん)が基になっている。またよく使われる「君は何どし生まれ」と聞かれ、私の場合「寅年生まれ」と答える。これが十二支である。この十干と十二支を組み合わて干支(えと)になる。年賀状でよく見かける平成二十九年丁酉という表記で、これは「ひのととり」と読み、十干と十二支が組み合わさった暦の例である。今回は十干、十二支について調べてみた。(現代こよみ読み解き事典:柏書房/1993刊)
十干とは甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称で、順に示すと音と訓では「こう/きのえ、おつ/きのと、へい/ひのえ、てい/ひのと、ぼ/つちのえ、き/つちのと、こう/かのえ、しん/かのと、じん/みずのえ、き/みずのと」と読まれる。十干とはもともとは日の順序を示すための符号(数詞)であったと考えられている。一か月を上旬・中旬・下旬とに分けて、一旬に含まれる十日間の一日一日を示すのに、第一日目を甲、第二日目を乙・・・というように符号をつけて数えていくのに使われた。これだと十干はおよそ一か月で三回巡ってくることになり、覚えておくのに都合がよかった。
十干の起源は中国殷(いん)の時代に遡るという説が有力である。それが周( しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の時代に入って、十二支と組み合わされて十干十二支(六十干支)となった。その組み合わせを次に示すと、十干の「甲、丙、戊、庚、壬」と、十二支の「子、寅、辰、午、申、戌」、十干の「乙、丁、己、辛、癸」と、十二支の「丑、卯、巳、未、酉、亥」が組み合わされるため、六十干支となる。順番の最後、癸亥( みずのとい)の次は最初の甲子( きのえね)に戻って繰り返す。このように六十年で干支が一回りするために六十歳になることを還暦を迎えるという。
途絶えることなく続く日々を、いかに区切って意義付けていくかは、古代中国人にとって大問題であった。月の満ち欠けを30日(または29日)とし、それを3つに分けて10日ごとに旬を置き、さらに10日を十干に配していくといった知恵はお見事というしかない。
前記の十干の訓読みは「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと」というように交互に語尾に「え」と「と」が付く。「えと」という呼び方の語源は、兄(え)と弟(と)に発している。先に記した五行(木、火、土、金、水:もっかどごんすい)と深い関わりがある。陽を兄、陰を弟とし、それぞれに五行を配置し、十干はそれぞれに意味を持つようになる。その関係を次に示す。
甲は木の兄(きのえ)、乙は木の弟(きのと)、丙は火の兄(ひのえ)、丁は火の弟(ひのと)、戊は土の兄(つちのえ)、己は土の弟(つちのと)、庚は金の兄(かのえ)、辛は金の弟(かのと)、壬は水の兄(みずのえ)、癸は水の弟(みずのと)。
以上今回は紙数の関係で十干を中心に説明することになったが、次回は十二支について調べることにする。