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 ことば遊び(4)


 ことば遊びは生活の潤滑油。楽しく遊ん記憶に残す。昔から伝わる生活の知恵の一つと言えよう。今回取り上げる「地口」と「無理問答」をもって「ことば遊び」の最終回とする。
 地口は洒落の部類に入るが、デジタル大辞泉によれば、[世間でよく使われることわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言語遊戯で、「舌切り雀」を「着た切り雀」といったり、「案ずるより産むがやすし」を「杏より梅が安し」といったようなもので,江戸時代中期に生まれた]とある。
 ここで挙げた例は「有名な文句をもじったもの」だが、ほかにも「韻を踏むことによってリズムをつけるだけで特に意味は無いもの」もある。例をあげると「①美味かった(馬勝った)、牛負けた:②驚き、桃の木、山椒の木:③結構毛だらけ猫灰だらけ:④見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」などはよく知られている。仲間内で麻雀などを楽しんでいるとき、何となく口から出るものだ。
 おなじようなもので「掛詞の技法を使い、後に意味のない言葉をつなげたもの 」がある。例えば「①恐れ入谷の鬼子母神 :②そうはいかないイカの金玉 :③あたり前田のクラッカー :④その手は桑名の焼き蛤」などもその手の「ことば遊び」の一つである。
 最後に「無理問答」を紹介する。これは発祥はお寺の和尚さんとの禅問答で、江戸時代の頃から楽しまれている「ことば遊び」の一種である。形式は、問う側が「○○なのに××とはこれいかに」という形式のお題を出し、答える側は「△△なのに と呼ぶが如し」と答えるものである。
 鈴木 棠三 氏によれば[これにはルールがあって、たとえば「一羽なのに鶏(にわとり→二羽とり)とはこれいかに」という問いに対し「一羽の鳥を千鳥というがことし」と答える類で、問と答とは奇抜なほどよいが、ただし主題に距離があってはならない。鳥の問いに対しては鳥で答えるという風に、同類の問答で一対にすることが必要である]とされているが、「①:一人なのに仙人(せんにん→千にん)というが如し。 ②一本なのに牛蒡(ごぼう→五ぼう)というが如し」のように、最近の問答例の中には同類でないものを例示しているケースが見られた。これなどは①の問いは「一人なのに住人(十人)とはこれいかに」に対応すべきで、同様に②の問いは「一本でも人参(にんじん→二んじん)とはこれいかに」とすべきであろう。
 多くの「ことば遊び」についてみてきたが、こうした遊びは息抜きと頭の体操になり、何か心和むような気がする。大喜利の遊びだけに終わらせず、日常生活でも会話の中に生かしてはどうだろうか。(2017.7.2)



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