この巻の奥書 には、《これは 天福元年中秋のころ、かきて鎮西の俗弟子楊光 秀にあたふ》とある。天福元年(1233)8月15夜のころ、鎮西(太宰府)にいる在家信者のために書いたものだという。そして道元はこの巻を自分が構想する『正法眼蔵』全百巻の第一巻とするしている。現存する九十五巻のうち在家信者向けに書かれたのは、この一巻だけでそれ以外は出家信者向けに書かれていることも、道元の思想を知る上で最も意義のある文節である。第一巻こそ道元研究者にとって避けて通れない「巻頭言」とでも言える存在である。
ここで『現成公案』の言葉の意味を再確認することにする。
" 現成"という語は「いま目の前に現われ、成っている存在」といった意味である。思うに、現われるといえば「消滅する」と対になり、「成る」といえば「壊れる」と対になる。
"公案"とは「真理のこと」で元は政府の公文書という意味があり、これは憲法のようにやたらに文字を変えたり、動かすことができない文書で、古人がいろいろと工夫して、作ったルールのようなものを集めたのが古則公案(661則)である。ここで道元が古則に変えて"現成"としたのは「人の目の前にあらわれ、成立しているものはすべて動かすことのできない真理、仏法の悟りである」との解釈を示している。
古則公案が限られた数に縛られているのを、道元が解放したところに意義がある。ルールなき新ルールを編み出したもので、道元によれば、「世界はいまあるがまま、そのままの存在である。自ら世界をあるがままに認識できたとき、それがすなわち悟りである」としており、道が示されておりようであり、突き放されているようでもあって、指針に従って行動する方が如何に容易いかというように感ずる難題に直面することになる。
以下原文に沿って要約していくことにする。
第一文「諸法の仏法なる時節。すなわち迷悟あり、修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゅじょう)あり。
万法(まんぽう)ともにわれにあらざる時期、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆゑに、生滅(しょうめつ)あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)おふるのみなり」
冒頭部分の「諸法」というのは、この世界に存在しているもののことで「あらゆるものごと」という言葉である。 次の「仏法」は仏道修行の行われる舞台としての世界を意味しており「ありのまま」ということである。この二つを結びつけると「諸法の仏性なる時節」は「あらゆるものごとのありのままの姿に目覚めた時」と解釈できる。
続く「すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」は、「脱すべきものとしての迷いと目指すべきものとしての悟り」という分かれ目があって、さらに「迷いを悟りへと転換するための」修行がある。「衆生の現実として」生と死があり、「修行し開悟成道したもろもろの」仏があり、「それを目指す」衆生がある。
次の段落は最初の段落『諸法』に対し『万法』、『仏法なる時節(A)』 に対し『われにあらざる時節(B)』 とあるようにそれぞれが対となっている。
「万法ともにわれにあらざる」とは「無我」であるという意味である。この『無我』とは、自己の内に何か変わらない本質=我という煩悩から解放され「さとり」を成就しているということである。この文脈をおたどると「総べてのものごとを"無我の立場"から見る時、迷いもなく、悟りもなく、解脱した人(諸仏)もなく、解脱しない人(衆生)もなく、生もなく、死もないと」ということになる。
無我の立場"で世界を見ると、客観性や対象性という概念は存在しない。第二者も第三者も存在しない。あるのは第一人称の主体(絶対主体性)のみである。
道元は「第一段階として『まよい(迷)』 とは対立的なものとして『さとり(悟)』を立ててその『さとり』 を外部にある目的としてとりあえず目指した上で、第二段階として、その目指したものは実は、本来的基盤に他ならないと自覚するというものである(これを修証一等という)。この論によれば、修行の目的として『さとり』は、実は修行の基盤であったという循環構造に根差している。
この第二段階を表現している分節が第二段落(B)である。ここでは第一段落(A)の叙述とは反対に、あらゆる分節の無化が語られる。こうした堂々巡りを繰り返すという構造の中で『迷』と『悟』という二元的分節も無化されるのである」と説明している。
第3段落は「もともと仏道は豊かな立場も、貧しい立場をも超越し捉われないものであるから、生死を解脱したところに生死があり、迷悟を解脱したところに迷悟があり、解脱のあるなしを問題としないところに解脱があるのである」と解釈される。
そして第一文の最終段落で「そうであるとはいっても,綺麗な花が風に散ればああ!惜しいと感じるし、雑草が生い茂れれば嫌だと感じるのが自然な感情だ」
道元はこのくだりで「花を愛で草を除いて庭を整えるという、人間の情の中でおのずと湧いてくる好悪を一方的に否定はしない。しかし、それは特定な情であり、違う状況で起きる情は違った見方が出ると理解すべきだ」と説明している。(2018.1.9)