第2文以降は原文を先に示し、次に現代文で解釈を要約して紹介していく。
〔原文〕
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。
(要約)
悟りと迷いは相対的関係にあり、道元は「自らが悟りの方向に近づけようとすることは迷いである。悟りの方から自分を目覚めさせてくれるのが悟りである。悟った人間は迷いの中にあって確り大悟できる。凡夫は悟りの中にあっても迷っている」とし、これに加えて「悟りの中でさらに悟りを深める者、迷いの中でさらに迷いを深める者がいる。悟った人間が真に悟った時は、自分は悟った人間だという自覚などはないものだ」と述べている。
続いて「そうではあるが、悟りを開いて仏になったのであり、仏が悟りを保持しているのである」
そして、第2文の最終段落で主体と客体が分かれている状態においては「われわれが全身全霊をもって物を見、全身全霊をもって声を聴こうとすれば、いくら確りと認識しようとしても、鏡に影が映るようにはいかないし、水に月が映るようにはいかない。この状態では主体と客体が分かれているので、主体が明らかになれば客体がぼやけるし、客体が明らかになれば主体がぼやけるのだ」としている。(2018.1.31)