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 要約『現成公案』その3


原文
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしやく)の休歇(きうけつ:きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。
 人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際(へんざい)を離却(りきゃく:りきゃ)せり。法すでにおのれに正伝(しょうでん)するとき、すみやかに本文人(ほんぶんにん:ほんぶんじん)なり。
 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、岸のうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辦肯(はんけん:べんこう)するには、自心自性(じしんじしょう)は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰(き)すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」

要約

 仏の道を学ぶということは、自己を明らかにしていくということである。自己を明らかにするということは自己を忘れることである。自己を忘れるというのは、、悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己のうちにある他人)を脱落させることである。「脱落」という言葉は読んで字のごとく「抜け落ちる」という意味で、あらゆる実体化された特定なものからの解放といった境地をいう。悟りにいたったならば、そこでしばらく休むとよい。だが、やがてまたそこを大きく脱け出ていかなければならない。
 人がはじめて仏法を求めるとき、その人は仏法から逡かに遠く離れている。だが、仏法がその人に正しく伝わった瞬間、たちまち本来の姿の人となる。
 人が舟に秉って行くとき、目を動かして岸のほうを見れば、岸が動いているかのように錯覚する。だが、目をしっかりと舟につけると、舟が進むのが分かる。それと同じく、わが身心をあれこれと思いめぐらして、よろずのことどもを解釈しようとする時には、わが心、わが本性は変わらぬものかと思い誤る。もし「目」をその居場所である「舟」にしっかり置くことは、「行李」という日常生活のあり方を、万物それぞれのあるべきところである「固裏」に落ち着かせるまでに到れば、よろずのことの我にあらぬ道理が明らかになる。(2018.2.8)






 









 


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