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 要約『現成公案』その4


原文
 「たき木はい(ひ)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪(たきぎ)はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位(ほふゐ)に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はい(ひ)となりぬるのち、さらに薪とならざるごとく、人のしぬるのち、さらに生(しやう)とならず。しかあるを、生(しやう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへ(ゑ)に不生(ふしやう)といふ。死の生(しやう)にならざる、法輪(ほふりん)のさだまれる仏転(ぶつてん)なり。このゆへに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり」
要約

 第4文節でも道元独特の論法で薪と灰、生と死という対比を時間軸の変化の中で論じている。
 「薪は燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になることはできない(当然の摂理を述べている)。灰は薪が燃えたのちの姿、薪は灰になる前の姿と見るべきではなかろう(灰が後、すなわち未来であり、薪が先、すな わち過去であると理解してはいけないとする。薪が時間軸の流れにおいて先にあり灰が後にあるとする 理解を否定している)。
 薪は薪としてのあり方において、先があり後がある。前後があるといっても、その前後は断ち切れている(薪は薪として独立していて、灰と同じ時間軸にないことを示している)。灰は灰のあり方において後があり先がある。薪が灰となったのち、再び薪とならないのと同様に、人は死せるのち、もう一度生きることはできない(その一刹那において過去があり未来があると説いている。その考え方を生と死に援用している)。
 だからして、生が死になるといわないのが、仏法の定まれる習いである。このゆえに不生という。死が生になると言わないのが仏教の表現である。それ故に不生不滅と言う。生は一時のあり方であり、死も一時のあり方である。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春となるとは思わず、春が夏となるともいわないのである(これを四季にあてはめると、冬は冬であり、春は春である。冬における一刹那の中に未来としての春 はあるが冬が経過して春になるのではなく、時間軸においては冬と春は切断され、冬は独立した一刹那 における認識として過去と未来を持ち、春は独立して独自に過去と未来をもつということになる)。2018.2.13



 









 


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