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 要約『現成公案』その6

原文
「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれどもうをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大(ようだい)のときは使大(しだい)なり。要小(えうせう)のときは使小(しせう)なり。かくのごとくして、頭々(てうてう)に辺際(へんざい)をつくさずといふ事なく、処々に踏飜(たふほん)せずといふことなしといへども、鳥(とり)もしそらをいづればたちまちに死す、魚(うを)もし水をいづればたちまちに死す。以水為命(いすいゐめい)しりぬべし、以空為命(いくうゐめい)しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証(しゆしよう)あり、その寿者命者(じゆしやみやうしや)あること、かくのごとし。
 しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬する鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李(あんり)したがひて現成公案(げんじやうこうあん)す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆへ(ゑ)にかくのごとくあるなり。
 しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇 一行、修一行なり。これにところあり、みち通達(つうだつ)せるによりて、しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽(きゅうじん)と同生(どうしょう)し、同参するゆゑにしかあるなり。得処(とくしょ)かならず自己の知見となりて、慮知(りょち)にしられんずるとならふことなかれ。証究(しょうきゅう)すみやかに現成すといへども、密有(みつう)かならずしも現成にあらず、見成(けんじょう)これ何必(かひつ)なり」
要約

「魚は水の中を泳いでいるが、いくら泳いでも水が尽きることはない。鳥は空を飛ぶが、いくら飛んでも空が果てることはない。だが、魚も鳥も、いまだかつて魚は水を離れないし、鳥は空を離れることはない。水や空は、大きな分量が必要なときは大きな分量が使われる。小さな分量が必要とされるときは小さな分量が使われる。このようにして、それぞれに即したその境涯を使い尽くさないことはなく、処処に飛び回らないことはないけれども、かりに鳥が空の外に出るとたちまちに死んでしまい、もし魚が水を出ればたちまちに死んでしまう。それ故、魚は水をもって命とし、鳥は空をもって命とすと知るべきだ。そしてそうだとすると、空は鳥をもって命としているのであり、水は魚をもって命としている。さらには、空は命をもって鳥とし、水は命をもって魚としていると知るべきである(ここで道元が説いているのは「修(修行)」と「証(悟り)」とは組み合った概念『修証一等』であり、証を離れた修と、修を離れた証もありえない。この二つは表裏の関係をなし、互いに他を支え合っている「春日祐芳」)。そのほか、さらにいろいろと言えようが、われらの修証といい、寿命というのもまたこのようなものなのである。
 それなのに、水を究め尽くしてから水を行かんとする魚があり、空を究め尽くしてから、空を行こうと考える鳥があれば、彼らは水にも空にも道を得ることができず、処を得ることはできまい。われわれがこの処さえしっかりと確保すれば、その行くところにしたがって、日常生活のうちに悟りの世界が実現する。こうした生きる場所とは、大きなものでもなく小さなものでもなく、主客と言ったものでもなく、過去より存続していたものでもなく、目の前に現れるものではないことから、(真理の現れとは)まさにあるがままにあるものだ。得た知というものが必ず自己の知見となって、自分に認識されるものだと考えてはならない。
 究極の悟りは修行によって速やかに体験されるけれども、有と無に分かれる以前の自己が体験されるとは限らない。そもそもそのような体験が必要か否か。必要はないだろう。
<注解>(増谷文雄)
  さらに、道元は、水をゆく魚、空を飛ぶ鳥を喩えとして、悟りをもとめる者の修証の心得を語る。そこにもまた、まことに心に銘ずべき又字が連なっている。
 頭頭 それぞれにというところである。
 踏飜 踏はふむ、足をもって地を踏むのである。飜はひるがえる、翼をもって空を飛ぶのである。
 以水為命、以空馬命・・・・そこには、魚と水と命につき、また、目と空と命につき、その主客を転置した命題が。それぞれに三度試みられている。道元には、そのような叙述がいたるところに試みられている。思うに、すべては縁起、すなわち関係性のなかに生きかつ滅する。いま道元は、その関係のありようを、さまざまに転置して考えることにより、常識の硬直的な考え方を超えた考え方をしようとしているといってよいであろう。
 現成公案 開題を参照されたい。ただし。ここでは、それが動詞として用いられている。さとりを実現するとか、さとりが形成されるということである。
 しる しるし(著し)である。明白であるとか、際立っているとかいうことぱである。
 密有 密には、精密の意と内容の意の両方の意味がある。ここでは、内証すなわちわが証し得たる内なる所有というほどの意であろう。
 見成 ここに現成と県成とが、同じ一節のなかにみえておる。よく似たニュアンスのことばであるが、けっして同じことぱではない。現成とは、すでに開題において説明したように、まさしく直観の成立について用いられることばである。だが、直観によって与えられたものは。なお漠として明白に整えられてはいない、「密有かならずしも見成にあらず」というはそのことである。それか明白にせられて、目のあたりに見るかごとくに整えられるとき、それが見成によって語られているのである。それは恐らく悟性のはたらきが加わってかくなるのであろうが、さとりとしては、それは必須の条吽ではない。それか「見成これ何必なり」という所以である。そこまで明白に思索をこらしていたとは、まさに恐るぺき道元の頭脳であると思う次第である。
何必 なんぞ必ずしも必要ならんや、というほどの意である。

 これまで「現成公案」を通じて道元の思想に重きを置いて解説してきた。それでも語句の対比については、その解釈に多くの疑問点も残る。
そこで、締めくくりとして「道元二元論考究」と題して、いずれの機会に執筆したいと考えている。
2018.3.1

 

 

 





 









 


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