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2019.11.4 地域分類(お国柄4)
 東北弁とか関西弁という仕分けは地域の特性を代表するものだが、その地域とはどのように分類されるのだろうか、地図を開いて確認してみた。
 全国は大きくは8つの地域に分けられる。
  先ず北は北海道でひとまとめになっている。順番に南に下がってくると東北が次に来る。ここには青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島の6県が含まれる。
  つぎが関東地方で、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川の7県。
 その次が中部地方で、新潟、富山、石川、福井、山梨、長野、岐阜、静岡、愛知の9県。
 さらに下がって関西地方は、三重、滋賀、京都、大坂、兵庫、奈良、和歌山の2府5県。
 そこから関門海峡まが中国地方で、鳥取、島根、岡山、広島、山口の5県。
 海を挟んで四国地方は、徳島、香川、愛媛、高知の4県。
 最後に位置するのが九州・沖縄地方で、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島そして沖縄の8県で区分されている。
 これらの八地方区分についてその経緯を見ると(wikipediaより)。
 北海道地方には、道北、道東、道央、道南の4分類もあるようだが、例外的に1つの地方で1つの自治体としている。
 東北地方は歴史的経緯などからもとは旧陸奥の国と旧出羽の国の2分割、気候・交通などで、太平洋側と日本海側の2分割が主だった分け方だった。
 関東地方は、関東地方に加え、甲信越(山梨・長野・新潟・静岡の4県)を加えて「広域関東圏」とする事例もある。
 中部地方には中央高地が広がっているため交通・文化・経済・政治など様々な結びつきの違いにより地域区分が多様である。東山地方とか信越地方と呼称するケースもある。
 関西地方は近畿地方などとも言われ隣県を含んだり、含まなかったりなどにより範囲が異なる場合がある。
 中国地方と四国を合わせて中国・四国地方と呼んだり、山陰・山陽・北四国・南四国と分けたりもすケースも見られる。
 最後に九州・沖縄地方は結構複雑に分類されるケースが見られる。九州と山口県をまとめて九州・山口、沖縄県単独で沖縄地方、沖縄県及び奄美群島で南西諸島などと呼ばれたり、中九州・東九州・西九州といった区分もある。
 以上のように地方分類は単純明確に分けられるものではない。したがってお国柄も東北弁などといった言葉遣いが上の区分に当てはまるとは限らない。そうしたことを踏まえながら、これから北から順にそのお国柄をみていきたい。 続く。

2019.11.7 北海道(お国柄5)
 今回のお国柄は北の国北海道。「でっかいどう」と言われるほど広くもはや国レベルに大きい地域について探ってみた。最近話題が東京オリンピックのマラソン会場に札幌が指定されたことで、連日テレビの話題となっている場所である。前回地域区分した時に、北海道を道北、道東、道央、道南の4分類するケースもあり、札幌は道央に位置する。今や名実ともに北海道の中核をなす都市として日本中から多くの人が訪れる場所だ。
 その北海道だが 知床の方に行くと、最果ての地に来たという感じがする。この大地は江戸時代には多くのアイヌが住んでいた。アイヌは文字を持たなかったので口承で歴史が伝承された。 口承文芸としてユーカラ(叙事詩)やウエペケレ(散文の昔話)があり、 金田一京助先生が長大なユーカラ研究を発表してその痕跡を後世に伝えている。アイヌ民族は狩猟を生業としていたから、その行動範囲は広く北海道のみならず東北地方や旧北方領土や樺太にまで及んでいた。アイヌの気質が今の北海道民に引き継がれていないのは、次に記すように明治以降内地からやってきた開拓民(農・牧畜・漁業・林業)が北海道を自らの地元に変えたことにより、少数民族化してしまったことによると思われる。
 その地に明治政府は屯田兵として兵士集団が送り込み、開拓民として今の北海道人の基礎を築いた。先祖伝来の地を捨ててやってきた人たちは、故郷の習慣やことばを捨て極寒の大地に新しいものを取り入れた。ハッカ、ジャガイモの裁培から山林を伐採して製紙、石炭を利用した製鉄所が開かれるなど、各地から集まった人たちが開拓し、こうしてフロンティアスピリットを受け継いだ北海道人の性格ができ上がった。 
 日本国中から集まった集団であるため、言語は東京弁より正確な標準語を話す。そこにも形式にこだわらない実直さがよく表れている。
 一般的に北海道の人は大らかで、形式ににこだわらず、粘り強く、実直で、素朴だという。こういうところから判断すると、広大な大地と開拓者精神そして厳しい冬がこのような気質を形成していったのだろう。
 一つ付け加えると、北海道の漁業といえばニシン漁である。明治まで主食はジャガイモとニシンだったという。今はほとんど獲れなくなったが、かつてある僧侶が「ニシンは松前のコメなり」といって仏前に米の代わりにニシンを備えたという話が残っている。こういう柔軟な思想は北海道人の特色となり「古い因習や形式にこだわらない」道民性を築いていったのであろう。 続く。

2019.11.10 東北地方青森県(お国柄6)
 今回は東北地方を紹介したいと考えているが、最初に書いたように県単位に分けると6県にまたがる広さであるので、どうしても県別に見ていかざるを得ない。
 最初の青森県は大雑把に言って旧津軽藩と旧南部藩に分かれており、津軽地方とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称である。一方、南部地方は江戸時代に南部氏の所領だった地域で、現在の青森県東部がその一部となっている。
 こうしたことから同じ県内でも西と東とでは気質が違う。地域的には日本海側の津軽と太平洋側の南部とは文化も言葉も異なっている。津軽は陽気で積極的なのに対して南部は引っ込み思案的といわれる。 何かにつけて津軽と南部の根深い対立もあるのだが「じょっばり(強情張り)」気質だけは南部・津軽に共通しているところが面白い。青森県人の「じょっぱり」ぶりは半端ではなく、青森名産のリンゴの名前をきめる時に秋田と福島と協議したのだが、青森は雪が多く「雪ノ下」という名称を主張したそうなのだが、秋田や福島はそれほど雪が多くないので、それに反対した。ところが一歩も譲らず、青森単独の名称にしてしまった。そのリンゴはいま「フジ」として受け継がれている(津軽富士にちなんだのか?)。ここまでくると子どもが駄々をこねるような領域で、青森ではこれを「ごんぼほる」という。「じょっぱり」と紙一重の気質である。
 先にも述べたように、言葉の面でも津軽と南部では明確に分かれる例がある。「昨日は寒かった」は津軽地方では「キナ サブフテアッタ」と言い、南部地方では「キノ サムカッタ」とまるで違う。私が聞けば南部の方がよく分かる。このように言葉の面ですらお互い譲らない。「じょっぱり」の面目躍如といったところか。
 恐らく青森県人に「どこのご出身ですか」と尋ねれば「津軽」または「南部」と答えるのではないだろうか。確かめたわけではないので、そうとは言いきれないが、両方の「じょっぱり」は相当に根深(ねぶたではない)そうだ。 続く。

2019.11.15 東北地方秋田県(お国柄7) 
 秋田県の地形を見ると三方を山に囲まれている。北は世界遺産で知られる白神山地、南は丁(ひのと)岳山地と鳥海山、東は奥羽山脈という地域柄で、かつては外敵の侵入が難しい「自然の要害」という場所が特徴だった。このことは住民の安全を守るのとは裏腹に他国との交流を阻んだ。その結果県民性として、他県と交流が遅れ、よそからの文化もなかなか入って来なかった。そのことにより「よそで何が起きていようと何と言われようとわが道を行く」という特有の県民性が生まれることになる。
 歴史的にみると、徳川の時代に藩主の交代がなく佐竹氏が二百六十年の文化と伝統を守った。江戸時代に秋田藩はお米の生産を奨励することによって大量生産が可能になり、それを海路を通して他県へ売却できた。
 それにより裕福で欲しいもの(着物などの多くの贅沢品を)をどんどん購入することができた。北国特有の風土は男性を割合に肌がきれいな「やさおとこ型」にし、女性は温柔で家庭的で「秋田美人」が多いとされる。気質は「秋田は金の出る国、湯湧く国、他国の人に儲けられる国、秋田は田の国、米の国、米の外に農業を知らぬ国、秋田は酒旨き国、女美(よ)き国、人らしき人の出ぬ国」(安藤和風『秋田』 1866-1936:現秋田魁新聞社主から)によく表されている。
 一見もの静かで潔癖ともされるが、食が豊かで米どころ・酒どころは、人づき合いも気前もよい。負けず嫌いで、見栄っ張りなところは隠せない。特筆すべきは「秋田名物数々あれど、訛り具合が日本一」と言われている。
 このお国訛りと「わが道を行く県民性」を表す事例として、明治の中頃、日本語を統一するために国会を中心に標準語教育が叫ばれた時期があった。これは全国各地で使われていた郷土色あふれる方言を禁止して言葉を統一しようとしたもので、この運動に最後までかたくなに抵抗したのが秋田県人だという「おらだちのことばは、秋田特有のもんだ」と言っていつまでも使い続けた。
 このため中央政府が秋田県知事に任命した武田千代三郎が、東京から秋田に赴任し、県庁職員に新任の挨拶をしたところ、職員には何を話しているのかさっぱり分からなかったとい話が伝わっている。そのことは反面陳情などで職員が中央政府に赴いて秋田訛りで話しても通じないということになり、こうした恥をかいているうちに職員たちは自発的に標準語を学び、やがて秋田県内にも標準語が浸透していったという。これは気質として「根が真面目な秋田県人は、何でもその気になって努力すると実力を発揮する」という一面を示している。 続く

2019.11.18 東北地方岩手県(お国柄8) 
 北海道に次いで広大な面積を誇る岩手県。岩手県の総面積は約15,000平方kmで、これは東京+神奈川+千葉+埼玉を合わせても足りない大きさだ。それだけに県民性にも地域差が出やすいと言える。郷土の偉大なる詩人宮沢賢治が「雨にも負けず、風にも負けず」と詠ったように、県土は気候も厳しく豪雪地帯で土地はやせているので、昔から岩手の人々は辛抱強く、どんな苦境にも耐え忍ぶといったタイプが多く、反面頑固で寡黙、かつ消極的などといわれる。他にも口下手だけどセールス上手。感情表現が地味なので、何を考えているのかわかりにくい。積極性に欠けるが、他人の干渉を嫌う。といったマイナス面が目立つ評価がなされている。
 地元産品として有名な、かの「わんこそば」はおとなしくて「おかわり」が言えない県民のために生まれたといわれるほどの口下手なのだそうだ。
 その一方で「腰は重いが一旦決めると強い」一面がある。これは古い話に「明治元年時の政府軍(官軍)が旧幕藩勢力を一掃すべく東上し、北越や東北の諸藩と激突した。諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結んで奮戦した。しかし『衆寡敵せず』の喩のごとく新政府軍の勝利に終わる。この時最後まで戦ったのは盛岡城を本拠とした南部藩だった。実際は南部藩の参戦は遅かった。それは戦況をうかがっていて中立を維持していたためで、同盟軍の勢いがいいので『ここらで参戦しねえと、まずいんでねえか』と重い腰を上げたという経緯がある。ところがこの判断は誤りで、最後は降伏することになってしまった」にも表れている。
 また「思慮深さは牛のごとし」とも評される面がある。これは岩手県人は簡単に泣き言をいわないということで、長い歴史の中で、飢饉や凶作に見舞われたことが深く関わっている。切れ目なく襲ってくる大飢饉に見舞われた江戸時代には多くの犠牲者が出ており、そんな極限の中を生き抜いた県民には「我慢強さ」が際立った。岩手の農村評論家大牟羅良(おおむらりょう)は「ものいわぬ農民」の中で、不平不満が沢山あっても口に出さない、岩手の農民の特徴を言い表している。詩人高村光太郎も「岩手の人」という詩の中で「岩手の人 沈深(ちんしん)牛のごとし」と岩手県人の口下手を取り上げている。 口下手だから商売も政治も苦手なのかというと、何と総理大臣を4人も輩出している。これは山口県8人、東京都5人に次ぐ第3位という銅メダル級で、岩手県の「努力家」「野心家」と言う一面が垣間見える。 続く。

2019.11.21 東北地方山形県(お国柄9) 
 今回紹介する山形県は、地理的には新潟・福島・宮城・秋田の4県に囲まれ、その上四方を山で囲まれた豪雪地帯。蔵王温泉、滑川温泉、白布温泉、湯野浜温泉など、全市町村すべてに温泉があり、あちこちにいい湯が湧く温泉どころである。気候は蔵王の樹氷が有名な豪雪地帯だが、夏はとても暑い。
 昔は雪に往来を遮断され、部落で細々と助け合いながら生活していた。そこから、社交性は限定的でも、助け合いの精神にあふれた人柄が育まれた。
 こうした地理的条件は山を隔てて東西に大きく分かれ、それが山形県人の気質にも大きく影響している。内陸にある最上・村山・置賜地区は、雪深さの影響を受けて、内向的で静かな面が強い。辛抱強さや仕事にじっくり取り組む職人気質で、一見ぶっきらぼうだが、内面は情が細やかであたたかな人が多いと言われている。
 一方、日本海に面した庄内地方は大きく分けて鶴岡市と酒田市。酒田は国内の物流で大きな役割を果たしていた影響が残り、山形県民の中では商売人気質でざっくばらん、社交性豊かな性格が特徴。鶴岡は城下町として栄えた名残で、プライドが高くおしとやかな性格の人が多いようだ。
 山形県人の気質を一括りにすると次のようにまとめられる。
・人あたりのいい人情家・最上川への愛着が強い・争い事が嫌いで、万事丸く収めるのがうまい・人間関係を大切にし、他人に対して疑いとか懸念はあまり持たない・変化を好まず、仕事や生活の中に新しいものを取り入れるのを嫌う・トラブル解決や他のセクションとの折衝はうまいなどなど。
 ちなみに女性は控えめで辛抱強く、男性をたてる控えめなタイプが多いそうだ、庄内地区の女性は、よく働く美人が多いと言われており人気があり。山形へ単身赴任したビジネスマンの7割が、現地で結婚するという統計がある。余談だが、私の甥っ子も酒田に赴任しそこで結婚している。
 こうして見ると山形県の県民性は、東北の中で最も「東北人気質」が色濃く出ている。「おしん」の舞台でもある山形県の県民性は、とても素朴で堅実である。 続く。

2019.11.24 東北地方宮城県(お国柄10)
 今回は「独眼竜」で知られた伊達藩の中心であった仙台市がある宮城県を取り上げる。
 仙台藩主伊達政宗が仙台藩主になった経緯は、家康の恩顧に負うところが大きい。「関ケ原の戦いのあと、徳川家康の許可を得た政宗は慶長6年(1601年)、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めた。ここに伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。徳川幕府からは松平の名字を与えられ『松平陸奥守』を称した(wikipedia)。」とある。
 宮城県の県民性はこの正宗に大きく影響されているとされている。その典型と言える「粋」で「任侠心」があり、「派手好き」な気質は殿様譲りのものといえよう。
 こうして伊達と言う気質は長く宮城県人に受け継がれ、東北6県の中で最も都会的であり、「東方の中心」と称されることが多い。
 そうした気質を列記すると、・気位が高く、仲間との結束より独立心の方が大きい・社交的で開放的・粘り強さや頑張りに欠ける・独立心が強く、自分のことは自分で決める。
 これを具体的に見ると「自分の意思をしっかり持っており、相手に干渉されることを好まず、プライドが高いところがある」、「東北のほかの地方と違い、気候にも比較的恵まれているので、米どころとしても発達した(「ササニシキ」や「ひとめぼれ」が日本一美味しいと思っている県民性がある)。さらに世界三大漁場も持っていることから、東北きっての豊かな県となったのである。そんな環境から宮城県人には人当たりのいい、のんびり屋が多いとされている」。
 このほか「東北出身者は口数が少なく、忍耐強いと言われている中で、宮城県民はおしゃべりが好きで、すぐに人と仲良くなったり人の懐に入ることが得意な人が多いとされている」
 このように宮城県人(仙台中心の)は、関東人から見てもオシャレで現代風な県民性を持っていることがよく伝わってくる。今にも「宮城は東北の東京のようなもんだっぺ」というセリフが聞こえてくるようだ。 続く。

2019.11.27 東北地方福島県(お国柄11)
 福島県は2011年に起きた東日本大震災の原発事故の印象が強く残っている。完全復旧するにはあと何年後か数十年後か不明である。そんな状況の中で福島県民は「我慢強さ」や「連帯感」など、その気質が十分に発揮されている。
 福島県は東西に広く、地形的な差も大きい。一般的に海に近い地域の「浜通り」、県庁所在地の福島市を含む「中通り」、そして歴史で有名な「会津地方」の3地域に分類される。この3つの地方は江戸時代には行政区分も違っていたように、県民性も大いに異なるのが特徴である。
 沿岸部の「浜通り」は比較的暖かい気候と海に面しており、漁師町が多く、開放的で気が荒い性格が特徴。福島市や郡山市白河市を結ぶ「中通り」は領主が頻繁に代わった歴史からも、柔軟な発想力で、新しいもの好きで、多少閉鎖的だが陽気である。「会津」はもっとも東北人らしい気質を持つ地域で頑固で辛抱強いといった雪国気質が強い。そんな3つの地方を一県にまとめたので、かえって各地方の人々はそれぞれの郷土愛が深まった。同郷のつながりを大切にし、他方のものを敬遠する傾向があり、付き合うには、仲間にしてもらえるよう地道な努力が必要だといわれる。
 「浜通り」と「中通り」に対して会津若松を中心とした「山通り」が「会津っポ」と呼ばれる強烈な気質を備えた人たちの地域である。繰り返しの説明になるが、「会津っぽ」は中通りの住民よりさらに閉鎖的、厳しい寒さに耐え続けた歴史が彼らを「頑固者」に育てた。「会津っぽ」の精神の中には明治維新「会津戦争」の負け戦の中「 西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃するなどの悲話が後世に伝えられている(wikipedia)」のような歴史的事件が語り継がれ郷土愛を強める一因となっている。どうぞ会津に「寄ってがっしぇ(いらしてください)」 続く。

2019.11.30 北陸地方新潟県(お国柄12)
 北陸は、典型的な日本海型の豪雪地帯で、シベリア寒気団が山脈にぶつかることで冬の大雪と春からの雪解け水をもたらす。山に積もった雪は夏に灌概用水になって南日本のように干ばつに見舞われることなく農地が開墾されたため、コメが関西の消費に充てられた。 雪国気質が生真面日さ、粘り強さを生んで、よく働くといわれる。
 新潟県には、江戸時代に若者が,冬期に江戸へ出て稼ぐ風習があり、帰ってくると「いっちょまえ(一人前)」として認められたという話が残っている。県民は、保守的で人情に厚く、新潟の中でも佐渡は「佐渡は新潟にあらず」といわれるように風土も気候も新潟とは違っている。
 全国一雪の多い県、新潟。厳しい自然環境をものともせず、米作りに勤しみ、うまい酒を造りあげてきた新潟県人。現在を示す指標として気になる統計が出ている。日本酒消費量、ブランデー消費量、餅消費量、すいか消費量などが全国一位である。ちなみに米生産量は3位である。
 これが示すように男女ともに酒好きで、質実剛健そのもの。雪に閉ざされるため保守的で忍耐強い。が、決して閉鎖的ではなく、人間関係を大切にするのが特徴。昔から東京との交流が盛んで、新しいものでも進んで受け入れる柔軟さがある。男性は戦国時代にも「越後の兵は全国でもっとも精強」と言われたほどたくましく、女性は「女房にするなら越後女」の言葉どおり、働き者で夫に尽くし、日本酒(麹酸が多く含まれる)のおかげか色白美人が多い。男性にとっては天国のような地だ。そのせいか男性には強い「地元志向」が見られる。統計を見ても北海道に次いで県外への転居者数が少ない。
 これは新潟県の若者は高校を卒業したあと大学進学で県外に出ていく人の比率が低く、県内に留まり専門的な技術や知識を学んで地元で働くケースが多い。ここにも新潟県人らしい、地にしっかり足を着けた人生を送るという構図が見られる。
 男らしい新潟弁告白「オレとずっと一緒にいてくんなせ!」 続く。