2019.4.2 新元号雑感
新年号は「令和」と決まった。かなりの関心をもって待っていたので、それなりの感慨がある。私は高齢者であるので年令の「令」の字と、周囲との「和」との組み合わせは座りがいい。
過ごしやすい世の中になる時代の到来は誰もが期待することだが、そのためには新元年号を動機づけにして、国民一体となって国づくりに参加しなければ得られないことである。
命名には一種願いが込められている。それは子どもが生まれる時の命名にも似た感覚で、その子の将来を名前に託するのが親の情というものである。
元号は国民全部が親のような気持ちで、その名前「令和」に期待が込めらるのも自然の成り行きであろう。
多分多くの人がそれぞれの思惑で新元号を考えたことであろう。それもこれも「令和」と決まったことで一件落着した。既にあやかり商戦の火ぶたが切って落とされた。文書に関する需要が一番多いと思うが、西暦表示が多くなったとは言え、まだまだ元号表示の文書も多いだろうから、印刷屋さんはここで商売繁盛の恩恵に与ることになるだろう。飲食業も抜け目なく新商品売り出しに力を入れ始めた。
来月から新元号に変わるとなると、私は3代(昭和・平成・令和」にわたって自分の人生を過ごすことになる。昭和が50年。平成が30年。そして令和へと続く長い人生である。3代を経験する者はこの高齢化社会では当たり前で、95歳以上の人が昨年の統計ではおよそ7百万人いる。中には明治生まれもいるから、そういう人は明治・大正が加わりなんと5代の御代にわたって生き延びたことになる。
こうして元号の切り口を変えてみると、どれだけ日本の高齢化率が急速に高まっているかが読み取れる。これは「令和」の時代が多難であることをうかがわせる数字だが、元気な老人を、働くことで「生き甲斐」を見出せるようにすることが課題解決への突破口になればいいのだが。
2019.4.6 思いつくままに
パソコンに向かって仕事をしている時、絵を描いている時は「描画館(paint museum)」に展示されているように、予めテーマは決まっており、初っ端から頭を使う必要はないが、文章を書くときは無い知恵でも絞り出させねばならぬ。今回は申しわけないが、息抜きのつもりで「思いつくままに」"筆まかせ"にして書き進めることにする。
思いつきだといっても、ただやたら書けばいいというものではない。まず話の内容で一番気を付けることは、過去に書いたものとかぶらないことである。このコラムも500回は超えているだろうから、記憶にはっきり残っていないものもある。特に引用の多いものほどその傾向が強い。よく(wikipedia)と表示されているのを見かけると思うが、これがなどが引用文の代表例である。
もとより浅学非才の身ゆえ、およそ原稿用紙2枚分(800字)のコラムを書き上げるに際しても、こうして他人の知恵を借りるなどして四苦八苦する始末だから、思うがままにすらすらと文章が生み出されるわけでは決してない。
このようにして他人の知識を借りながら話をまとめていく。これも絵と同様借り物(原画がある)ということでは違いはないかも知れない。
あえて相違点を上げるなら、ここで使うのは挿入句であるから、文脈に合わせて取り込む調味料のようなものである。したがって調味料が強すぎると、料理そのものがダメになってしまう。その辺は小賢しい技かも知れないが、細心の注意が必要である。
テーマを特に決めないで今回のように気ままに書き進めるようなことはまずない。仕事場でスーツを着てパソコンに向かうのと、スェット姿でパソコンに向かうといったほどの気構えの差がある。
できれば毎回このように着流しのスタイルでペンならぬキーボードに指が走ればいいのだが、そうもいかないのが「物を書く」という作業の難しさである。
2019.4.9 体質(1)
子が親に似るということは外見的にはよくある。それと似ているのが体質を受け継ぐということで、私などは母親が糖尿病だったので、その遺伝子を受け継いで糖尿病になった。こういうのを遺伝子体質というのだそうだ。無論これは生活習慣病であるから、普段から食事に気を付け摂生していれば遺伝的であっても糖尿病にはならない。本人次第なのだが50%ぐらいは糖尿病になる確率だそうである。
体質という大きなくくりでは語れないので、自分がいまかかっている糖尿病はどういうものなのかについて見ていこう。
私は無類の甘党である。その代わり酒は全くの下戸である。甘いものには目がない。甘い人ですら好きなくらいだ。このコラムでも子どもの頃汁粉を5杯食べてその上飯を食って動けなくなって、母親に夜の散歩に連れ出されたという「戦中」の思い出を書いた記憶があるが、そのようにこどものころから正真正銘の甘いもの好きなのである。
大福、おはぎ、最中、羊羹、アンパン、あんドーナツ、チョコレート、カリントウなど歯で噛んで食べる系の甘いもの好きで、コーラや飴のように飲んだり、舐める系の甘味にはそれほど食指は動かない(嫌いではないが)。
一日でも甘いものを欠くと何か物足りないと感じる食生活である。糖尿病で入院し食生活の改善の指導を受けたころの食事は、まさに味気ない毎日だった。おまけにインスリン注射まで毎日自分で打たねばならず、それもしんどかった。その後年も年なので飲み薬に変えてもらい、それでも順調に糖尿病の数値測定でいい成績を出していた。
ところが『喉元過ぎれば熱さを忘れる』ではないが、また甘いものをよく食べるようになってきた。数値を測っていないので知らぬ間に悪くなっていたようで、最近ほかのことで検査を受けたら糖尿病数値のA1C(エーワンシー)という血中のヘモクロビンがどれくらいあるかという判定指標で、かなり悪い数値が出て、それを速やかに解消しなければならないという事態に追い込まれた。
ということで、これからまたしばらく甘いもの断ち食生活を余儀なくされることになり、そのうち『饅頭怖い』夢を見ることになりそうだ。
2019.4.13 体質(2)
前回はなぜ私が糖尿病にかかり、そのための改善に努めなければならないかについて記した。今回は糖尿病の怖さについて語ることにする。
糖尿病は不思議な病気で、それ自体では体のどの部位が悪いとかというものではない。その諸悪は病気にかかると、その病気の進行を早め拡大させることと、治療自体成功しても爾後が悪いという点を指摘したい。
その典型例を私の疾患例で示すと、ある時背中がかゆく赤い点々が出たので皮膚科で診てもらった。帯状疱疹と診断され抗生物質の投与を始めたが、見る見るうちに右上半身一杯に、恰も燎原の火が広がるように真赤に染め上げた。火傷の赤むくれのようで如何にも痛そうだったが、不思議とその時は痛くなかった。それが一旦赤みが消えると同時に猛烈な痛みが襲ってきた。右上半身針で刺されるような痛さである。そうなると医者は痛み止めを出すしかない。
私は身内にも何人も帯状疱疹にかかった者がいるが、ほとんど2~3週間で収まるという話を聞いていた。それも女性に多いという。わが家系も女性がこれにかかっている。それでも話題になるほどの病気ではなかったが、これも遺伝体質なのだろうか。子どもの時の水疱瘡のばい菌が原因で発症するらしい。老年になって体の抵抗力が弱まったのを狙って発病する。問題は病後の痛みである。通常1か月で痛みは取れるというが、私の場合全然取れない。それどころか痛みがどんどん広がった。バイ菌が健康な神経細胞を食べてしまった後にその神経が刺激されて痛むということらしい。
結局痛みが治まらないままペーンクリニック(痛み専門のクリニック)を紹介された。そこでの見立ては帯状疱疹後神経痛で、ここまで悪化したのは糖尿病のせいだと言われた。
ブロック注射を2週間に1回打つのに1年間通ったが、結局痛みは治まらず、医者もお手上げで後は時間の経過に任せるということで打ち切った。それが2年経った今でも痛い。こうしてタイピングするときは特に痛みを感じる。当初はペンや箸は持てないほどだったから少しは良くなったのか、それとも痛みに馴れたのかもしれない。
このように糖尿病体質であるので、他の病気でも爾後は良くない。医者に言わせると頑張って通常の人並みの血糖値に下げる努力するしか方法はないそうだ。どうやら一生の付き合いになりそうである。
2019.4.17 表情百相
HPの看板イラストの人物百相を見ても分かるように、人の表情は一人一人誰をとっても同じものはない。
人には感情があり、それに連動して顔の表情は「喜怒哀楽」のように様々に変わる。今回はそうした顔の変化を学術的に研究して表情変化認識システムを開発したエクマン(脚注)の分類に従って、どのような変化があるのかについて検証する。なお、大分類として「喜怒哀楽」の順で示すことにした。
「喜び」
•喜び•功績に基づく自負心•興奮•おもしろさ
「怒」
•怒り•嫌悪•恐れ•困惑
「哀」
•悲しみ•恥•罪悪感•苦しみ・痛み
「楽」
•安心•幸福感•満足•納得感
このようにプラスイメージの「喜びと楽しみ」、マイナスイメージの「怒りと哀しみ」と無理に2分類したため「そうかな」と思われるところもあるかも知れないが、そこのところはお許し願いたい。
表情とは感情の「鏡」のようなもので、表に出やすいものである。特に抑えた感情表現を「ポーカーフェース」という言葉で表しているのも、如何に感情をかみ殺すのが難しいかということの証である。
ここで示したエクマンの表情変化分類は大枠なので、実際どういう形で顔に表れるのかそれぞれの実際例をあげてみると。
喜び・興奮・おもしろさを混ぜたものに「笑い」があり、その笑いも「クスクス笑い」から大口開けて笑う「呵呵(かか)大笑」まである。
怒りの表情は顔の筋肉が硬直し頭に血が上り「怒髪天を衝く」ような状態のものから「カッとする」と表現するものまである。
哀・悲しみは、時には涙を流して泣くものや途方に暮れる状態が顔に出る。
楽は嬉しい時、満足した時、安心した時などに柔らかい表情として顔に出る。
このように人はその時の状況や心のあり方で顔に表情として表出するところが他の動物とは異なるのである。次号以降このテーマに関連したものを取り上げる。
*ポール・エクマン(Paul Ekman、1934年 - )は感情と表情に関する先駆的な研究を行ったアメリカ合衆国の心理学者。
2019.4.20 口の生理学的考察(1)
今回は人の顔についている、口について話すことにする。第1回目はクシャミ。
「クシャミ三回××三錠」というCMにもあるように、クシャミは風邪の前兆の警報の役割を果たす。その他にも胡椒のような粉末を吸った時にも連発する。5、6回クシャミをした後「ハクション・・・畜生」などという結語(結びの言葉)までおまけに発せられるのもおもしろい話だ。
クシャミは不随意運動といって、自分で抑えることはできないのだそうである。その原因には2つあるという(wikipedia)。その一つは「体温を上げるための生理現象である。人は、吸気があっても、吐気で鼻腔内の体温を保とうとするが、鼻腔内の体温が著しく下がったとき、鼻腔内の知覚神経は脳に体を振動させて体温を上げる命令を出す。これがくしゃみである」これが最初に記した風邪の例である。二つ目は「鼻腔内の埃、異物を体外に排出するための噴出機能である」これは次に記した胡椒によるクシャミの例ということになる。
上に書いたのことは身体の生理作用としてのクシャミであるが、クシャミは他にもいろいろとエピソードとして伝えられている。
私のようにクシャミをしてぎっくり腰になった例もある。これはクシャミが 「背筋を突発的に緊張させる運動」言わばロケットを発射するような衝撃を体に与えるということである。
クシャミをすると誰かが噂しているという喩えがあるが、その由来になったといわれているのが「一誹り 二笑い 三惚れ 四風邪(いちそしり にわらい さんほれ しかぜ)」ということわざからきている。ちなみに夏目漱石の「吾輩は猫である」の猫は、中学教師苦沙弥(くしゃみ)先生の飼い猫である。
このほか歌舞伎狂言でクシャミを「くさめ」という呪文で表現する。これは古来より日本では「くしゃみをすると、鼻から魂が抜けて早死にする」と恐れられており、「くさめ」という呪文を唱えて死を遠ざけようとしていたことが由来となっている。
いずれにせよクシャミというものは「時速300㎞以上で100万粒から200万粒もの唾の飛沫が1~3mの飛距離で飛び散る」そうだから、人前では口を覆ってするようにしよう。
2019.4.23 口の生理学的考察(2)
今回はアクビ(欠伸)について考えてみる。
アクビを押さえられず苦労する時があると思う。それはいつも時と場所を選ばない。人前でも「しまった」という間に出るもので。慌てて手で隠したりする。
大体アクビの出方としては「眠くなれば出る。退屈なら出る。飽きたら出る。人につられるて出る。噛み殺したり、ガマンしたりしても人前をはばからず出る」というのが一般的である。
私はいつも睡眠が浅く、寝付きも悪い。そのためよくアクビする。仕事をしている時代は会議なのでは退屈してアクビは出るは、果てはコックリ、コックリと舟をこぐ始末で、あの単調な流れは睡眠薬のようであったという記憶がある。学生などは講義の最中にアクビをかみ殺すことは多いだろう。
欧米では先生をリスペクトしていない行為として居眠りは厳禁だそうであるが、日本の学生はその辺は緩いようだ。
さて、夜床に入り寝ようとしてもアクビばかり出て、なかなか寝付けない。これはどうした訳なのか調べてみると「糖尿病に罹ると、脳内のエネルギー源になる血液中のブドウ糖が減り、脳の働きが低下するので、あくびが出やすくなる。口を大きく開けてあくびをするのは、脳の血流を促して酸素を増やし、顔の筋肉を動かして大脳を刺激するためだ」私は糖尿病であるから、これに当てはまる。と変なところで納得する。
「人につられるて出る」アクビは伝染することは確かで、こういうシーンはよく見かける。心理学者の大原貴弘教授によれば「親密な人と一緒にいるほど伝染しやすいという研究結果から、相手に対する共感や関心の強さが影響していると考えられる。
動物の群れにもそういう兆候は見られ、ボス猿がアクビをするとそれが群れに伝染する」と言っている。朝寝起きに伸びをしたときに出るアクビは「覚醒水準を上げる」つまり「はっきり目覚める作用」ということである。
よく挨拶の席で長々と話す人がいる「長口上は欠伸の種」という諺は誰でも思い当たる言葉である。これは「長話は人を退屈させるから、話は簡潔にせよということ」と言うことである。これ以上話すとさぞ退屈することだろうから、今回はここまでとする。
2019.4.27 口の生理学的考察(3)
今回は「シャックリ」を話題にする。
シャックリは思いもかけない時に出るもので、結構ばつの悪い思いをした経験がある。これも自分で抑制できるものではなく、始末の悪い生理現象の一つである。
シャックリに関する諸々のことを論って(あげつらって)みることにしよう。
子どものころ「シャックリを100回すると死ぬ」と聞き覚えていて、シャックリが出ると、息を止める、急に驚かす、水を一気に飲む、舌を引っ張るなどの伝統的対策を施したものである。その内に収まり、今も死んでいないので、その緊急対策が功を奏したのであろう。
シャックリというのは医学的には「吃逆(きつぎゃく)」と言うのだそうだが、難しいので「シャックリ」として通っている。その定義付けは(wikipedia)「シャックリ(吃逆)とは横隔膜(または、他の呼吸補助筋)の強直性痙攣および、声帯が閉じて「ヒック」という音が発生することが一定間隔で繰り返される現象で多くは数分から数十分で止まる」と言うことである。
「シャックリの世界最長記録保持者はアメリカのチャールズ・オズボーン (1894–1991) である。オズボーンのシャックリは 1922年に始まり、以後68年間(1990年まで)つ続いた」と言う記録がある。これなどは持病のようなもので、さぞかし辛い人生だったことだろうと思うのだが、本人は普通の生活をしていたそうで、バラエティー番組などに出演し一躍有名になったりしたこともあるから「災い転じて福となす」と言った典型例かも知れない。
英語では、「ヒカップ( hiccup )」と言い、日本の同様、シャックリが発生した時に出る、「ヒック」という音から連想されたものである。他の諸外国でも似たような音の表現がされている。
ところで何故シャックリは出るのかと言うと、これもwikipediaから「早食い、大食い、飲み過ぎ、刺激物の過食、タバコの吸い過ぎ、大笑いした時や会話中などが原因で起きやすい」と言う。何事も度を過ぎると碌なことはない。