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2019.6.7 入院騒動
 今回は差し込み記事としてこの度の入院騒ぎについて書いてみたいと思います。この手術騒動で年は取りたくないものだとつくづく実感しました。騙しだまし使ってきた腰が遂にダメになり、80歳を過ぎてからの手術と相成り、治療のため長期間の休刊となりましたこと最初にお詫び申し上げます。
 何でも記事にしてしまう私としては、そのことを話題とすることは一つの機会であり、今回のテーマといたしました。この記事は別稿「入院日誌」として「writeしるす」でも紹介していくつもりです。
 俗に言うギックリ腰を繰り返した上での入院で、正式には椎間板ヘルニアの手術ということになったわけです。このヘルニアの正体は脊柱管の軟骨が飛び出し神経に触れて激しい痛みが発症するもので、坐骨神経痛とも言います。手術でこの飛び出した軟骨を除去します。丁度腰の中央辺りを4cmほど切って行われ、最新の技術と匠の技が組み合わさって手術は成功するもので、実に見事なシーンが展開したのじゃないかと想像しています。手術が終わると足の痛みは一気に消えていました。思えば「なぜもっと早く手術を受けなかったのか」と、この3か月間の苦しみを悔やんだものでした。
 さて、手術後ベッドに戻ると体中から管が出ている管人間になっていました。身体に繋がっている管が何なのか紹介しますと、胸からは吸盤を貼られた先に心電図モニターが、術後の傷口にはドレンと言って溜まった血を抜く管がタンクに繋がっている。身動きできないので局部の先から出ている管が透明な樹脂袋に繋がっている。腕には点滴の管が左手首まで伸びて抗生物質を流し続けている。そのほか口には酸素マスクが被せられているといった有様で、まさにがんじがらめと言う感じがしました。
 これを書いているのは退院した日で、まだ傷に痛みがありますが、それを除けば痛いところもなく先ずは順調な回復と申せましょう。とは申せ3か月寝込んですっかり足の筋肉が落ちて体重も6キロほど減ったので、リハビリを自分で行い、体調が戻ると言われている3か月間は気が抜けない毎日を過ごすことになります。
 これから外に出て軽く歩くことができます。季節は梅雨に向かいますが、何かいい記事をお送りできるよう努めます。ご期待ください。

2019.6.12 郷愁
 イージーリスニングの曲を聴いていると、時たま日本の唱歌が混じっていることがある。そういう曲を聞くとふと昔を思い出して、その歌詞が頭をよぎる。『夕焼けこやけで日がくれて』とっても貧しく毎日の食にも事欠いた田舎の疎開先の風景。自然の美しさだけが唯一の慰めで、B29さえ飛んでいなければ夕焼雲は赤く空を染め、烏が森の住処に帰る姿を見せる平和な風景が広がっていたはずだ。
 小学校1年生だったあの一時に私の幼い思い出は凝縮され、時々ふっとよみがえる。甘酸っぱい郷愁の味。夕焼け空の下森の中で薪取り(枯れ枝取り)をして母と並んで帰ったあの畦道。今の子どもたちには思いも及ばないないような原始的生活の日々が広がっていた。
 郷愁とは必ずしもどれもが経験する感傷ではないかもしれない。毎日毎日一瞬一瞬が色濃くつまった思い出の地は、遠く隔てて想うもの。現実は残酷である。50年後に再び訪れたが、何も変わらず、知人は年老いてその地で暮らしていたが、こみ上げてくる懐かしい味は感じられなかった。
 郷愁とは離れているからこそ懐かしく、勝手に自分の中で脚色され美化されたフィクションの世界の色合いを持つようなものなのか。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷(ふるさと)」私にとって生まれ故郷は都会の中で、本当は母の故郷だった。それは母の遺伝子を強く引いた私の心の中の故郷なのかも知れない。今は亡き母の面影が常に付きまとうのも、苦しい生活の中、私を常に守ってくれた母の存在があったればこその郷愁なのかも知れない。その母は102歳の長寿を全うした。

2019.6.17 気持ちを空っぽにする
 「writeしるす」でも連載した「禅」に関することの中で座禅がある。禅の修行の第一で、「只管打坐(しかんたざ)」といってひたすら座り続けることである。ところが坐禅の仕方にも何種類かある。一応紹介することにすると、先ずは正式な仕方は次のようになる(禅仏教 根源的人間 上田閑照著 岩波書店p235から抜粋)。
「まず身体を整えるところから始める。背骨を真っ直ぐにして坐ることを念頭に置き、少し大きめの座布団の上に座り、その際さらに尻の下に二つ折りにした座布団をしく。これに浅く腰かけたような具合にしてあぐらをかき、その姿勢から足を組んでゆく。まず右の足を左の股の付け根の上に深くのせ、次に左の足を右の股の付根の上に深くのせる。これが仏教用語でいうところの「結跏趺坐(けっかふざ)」というスタイルである。場合によっては片方の足をのせるだけにすることもある(半跏趺坐)。
 うしろ頚を伸ばして顎を引き、そして尻をぐんと後ろに引きながら、背骨を真っ直ぐに立てる。これが最肝要。この状態をたとえて「青竹の節を抜いたように」とか「頭のテッペンから銅貨を落としたら尻の穴にチャリンと抜けるようにする(*これはどうかと思うが)」と言われる。
 肩に力を入れず、腕は自然にたれ、両手を前で次のように組み合わせる。すなわち、右手の掌に左手を重ねるようにして握り合わせる、それを下腹部に付けて組み合わせた足の上にのせる。こうして、全体としてピラミッド型の「坐り」になる。
 この坐りをきめるために、上体を前後左右に三回ほど揺り動かして真中心でピタリと止める。上体は軽くゆったりとして、重心はおのずから下腹部に定まってくる。真直ぐに伸ばした背骨は天地を貫く「尻で地球をぶち抜く」と言われる。
 (*ここで更にひと押しして)このように「ゆったりと、どっしりと、凛然と,東海の天に富士山の突っ立ったように」正身端座するのである。このあと坐禅そのものに入るのであるが、これについては次号に続く。


2019.6.21 気持ちを空っぽにする(2)
 前回は坐禅の坐り方について述べたので、今回は視線の置き方や呼吸法などについて記す。
「目は半眼に開き、1m程前方に視線を落とす。見るでもなく見ないでもなく(ボーとした状態)結跏趺坐する。坐禅は身心一如(* 物事に一心に集中しているさま。また、身体と精神は一体であって、分けることはできず、一つのものの両面にすぎないという仏教の考え) であって、はじめから身体通して行ずる。坐というのは「を行住坐臥(四威儀)」の内の一つの特殊な姿勢にすぎないものではない。坐から立ち、坐から臥す。坐は四威儀の内の原「姿勢」なのである。
 このようにして姿勢身体の坐りがきまると、第二に、調息、すなわち呼吸をととのえることに入る。まず、腹式呼吸を数度。それも、口を大きく開いて大気と下腹部の腹中とを直結するような具合にして、自己を一切カラッポにするように静かに長く長く吐いて吐きつくす。もうこれ以上吐けないというところで、さらに口をすぼめて吐きつくしてゆく。
 そのようにして吐きつくしたら、今度は下腹(下っ腹)の緊張を緩めて口を閉じる。すると鼻から自然に空気が入ってくるが、それを深く下腹に満ちるまで吸い込む。十分吸い込んだらそこでちょっと息を止めて静止し、そして再び口を大きく開けて先程と同じように長く長く吐いてゆく。この深呼吸によって下腹の内外の空気が完全に交換され、真新しい出発となる。
 その後は、口を閉じて鼻から自然に空気を出入させながら『静かに細く長く』腹式呼吸をする。これはいわゆる『丹田息』である。『静かに細く長く』と言っても、呼吸には無理はできない。自分の自然な呼吸のリズムから始めて、自然に工夫されながら自分のものとなってゆく。
 一息一息ゆるがせにせず、吸う時は下腹深くまで吸い込むように、吐く時は下腹から呼気が出てくるように呼吸を繰り返す。以上呼吸法について詳しく説明した。次回は精神を統一する「調心」について記す。

2019.6.25 気持ちを空っぽにする(3)
 今回は「調心」これは精神を集中統一して雑念を払って没入する(三昧)工夫をすることであるが、その最基本が数息観(すそくかん)という仕方である。 これは「息を数える観法」のことで、出入りの息を数えることに全身全霊を集中していく。数え方には幾通りあるが、基本的には、吐く息を主にして数える。
 どうするかというと、吐く息を「ヒト-」と数え(声に出さず心で)、続いて吸う息を「ツー」と数える。出入りの息で一単位になることになる。数える時、息と数が別々にならぬように、息を数えるというより、むしろ数えるという動作に息が自ずからついてくるように、「ヒト-」と息を吐きながら「臍の下(丹田)で数える」その際、数えるという動作は出る息を腹の底から出すように念ずることである。気持ちとしては「一切が透明明白」という状態にする。そして「ツー」と吸う。次に「フタ-」と吐き「ツー」と吸う。こうして十まで数え、再びはじめの一つにもどって反復する。
 これを「心を数に傾けて散らさない」ようにして何度でも繰り返すのである。もし途中で数え違ったり、ふと頭に浮かんだこと(雑念)にまぎれて数えることが上の空になったりした場合は、気がついたその即座にはじめの一つに立ち戻って改めて始めから数え直さなければならない。このようにして、一つから十まで、ただひたすら息を数えることに没入していくのである。息を数えて一つから十に至る、こんな簡単なことに見えるものなのだが実際には最も単純なことであるだけに(人は実は単純ではないから)極度に醒めた澄み切った緊張が要求される。
 しかもこの緊張は、ただ坐って息をするだけという緊張ならざる緊張である。静かに細く長く綿々たる出入の息だけに、あたかも深い深い、熟眠のようでありつつ同時に、これまで示してきた仕方で反復して一つから十まで真に数えることができるなら、これは一点の曇りも曖昧さもない明々白々醒めきった緊張である。
 数えつつ出入の息にピッタリ一つになりながら、その一つのところが、数えるという心の働きのうちで真っ白になる(空になる)のである。この故に数息は数息観と言われるのである。次回は坐らずして坐禅の境地に至ることができるかについて記す。

2019.6.28 気持ちを空っぽにする(4)
 今回は次回申したように、坐らずして坐禅の境地に至ることができるかについて記す。
 今までは蒲団の上の静の坐禅だったが、今度は日常生活を行いながら錬磨する坐禅で、言ってみれば自由形坐禅である。
 われわれの日中の活動の大部分は何か具体的な仕事に携わっているから、当面そうした中で座禅を行うことになる。例えばをハガキを書くという小さな仕事から、長い努力が必要な困難な仕事に至るまで雑念にかまけず、脇目をせず、横道にそれず、それぞれことの性質に応じて一気呵成に、粘り強く、そのことになり切って働いていく訓練の中に自然に自由形の坐禅が身に付くのである。
 われわれは一枚のハガキを書く間にも、ふと別のことが頭に浮かんできて、そのままそれからそれへと思いが連鎖して迷い出ていることがしばしばである。それは、ハガキを書くこと以外に自分が残っているからである。
 数息観の場合に、雑念が出るに任せ、消えるに任せ取り合わず、ただ数息に全心全気力を集中してゆくのと全く同じく、ハガキを書く場合も、書くことに全身心を集中しなければならない。そのような仕方で、ハガキを書く時にはまさにそのハガキを書くそのことによって雑念を離れてゆき、大きく言えば生死を離れてゆくことになるのである。
 古人の言葉にハガキを書く時には「ハガキ書くべからず、坐禅すべし」ということである。
 以上はその事に当たって自分を捨てて、そのことになり切ってゆくという、いわば事三昧といえる。それによってどんなに小さなことでも無限無量、天地を尽くすものになる。そのような仕方で事が行われてゆくところに真の自己成就がある。
 事への出入のリアルな自由が坐禅であり、その体得のため蒲団上の坐禅によってその基本のスタイルを身に着け、しかるのち自由形坐禅によって外での仕事の中で実習錬磨するものである。そうすれば定型の坐禅を経なくても禅に入っていることになる。
 坐禅をすることについて、今まで述べてきたことを纏めると、われわれの日々の活動は瞬時の切れ目もない連続ではなく、事と事の間には様々な状態の合間がある。そのような合間には絶えず坐禅(打座、または少なくとも数息観)に還るように努めなければならない。
 以上、座禅に関し「(禅仏教 根源的人間 上田閑照著」 岩波書店p235~p252から抜粋して紹介した。途中表現を簡素化したため著者の本意には叶っていないかもしれないことを伝え、この稿を終わりにする。