2019.7.1 人生が詰まるカバン
人の人生はそれぞれ一人だけのもの。捨てようにも捨てられないものである。そのように人生が詰まっているのがカバンである。
前にも書いた覚えがあるが、捨てられないカバンについて再考する。とりあえず、今携行しているのはウエストポーチという種類で超小型で収納にいささか問題があるので、自分で脇ポケットを縫いつけスマホとメガネを収納できるよう改善した。
メーカーはこうした一工夫を何故しないのか、このようなバッグを調べて見てもメーカがどこにも見当たらない。他のアイデアとしては、バッグの底の部分にベルト止めの折り畳み傘を持ち運べることができれば、この梅雨時にはより便利な使いようができるのにと思う。
こうして見てゆくと、すべてのニーズに対応できるのは大きすぎるため、よほどのことがない限り使わない。そこで私の場合、買い物などする時のために、ポーチのフックにち超小型の折り畳みバッグ(kivaというメーカ)を常時ぶら下げている。これなど機能を補完し合うということで、ニーズを満たすというアイデアである。
そこで本題に入るが、そのカバンに一体何が入っているのかというと、それには私の人生が詰まっている。無論カバンの中身は時代で変わるのだが、今は後期高齢者の仲間入りをして久しいから身体も多くガタがきているので、医療関係機関の診察券で膨らんだパス入れや薬手帳が必携になっている。カバンを携帯して出かけるのはほとんど医療機関だということも人生最終章に入っていることを如実に物語っている。
これで今リハビリ中の成果が上がれば、外に取材に出かけることができるから、カバンの中身もカメラやペットボトル、ときにはタブレットPCなどで重くなることになる。それを期待した面もあるが、つい最近ポーチから少し大きめな斜め掛けでリュックにもなる多機能な3ウェイバッグに代が変わった。腰の手術により長年悩まされた腰痛から解放され、あっちこっちに出かけるのも夢ではなくなった。
カバンはその持ち主の人生を映して形を変えながら、生ある限り同じ道を歩く伴侶であるといってもいいだろう。
2019.7.4 小さなこだわり
私には少なからず、物に対するこだわりがある。前回紹介した「カバンは人生を映す」がその最たるものであるが、私にはこのように妙にこだわるところがある。
人はこだわることが動機づけになることがある。工夫などはこだわりの所産と言っても間違いはあるまい。
もともと「こだわるとは 気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する」といったほどの意味で、あまりいい印象を与える言葉ではない。ところがこの使い方には最近では「些細な点にまで気を配る」、「思い入れする」という意味合いにも使われるようになっている。
わたしのこだわりは後者の意味で使っていると解釈していただきたい。言ってみればモノに対する思い入れのようなものだ。前回「カバン」でも示したように、大きく作れば可能なものを小さく作って達成するという「難題」をクリアーすることが「こだわり」なのである。
モノづくりをする日本の職人にはこうした意気込みがあるはずである。モノという単に入れ物であってもされど入れ物という感覚をもってモノ作り(創り)に対峙しないと、工夫というものが生まれてこない。職人に一工夫あれば、それを試作することは簡単なはずである。
現実の例を上げるなら、最近購入した肩掛けカバンは小さくてリュックにもなる面白グッズ(前回紹介)なのだが、私の小さなこだわりに照らせば、カバンの脇に折りたたみ傘やメガネ入れなどを収納するポケットが付いていない点に不満を覚える。アウトポケットというのは直ぐに取り出せるというメリットがある。実際に折り畳み携帯バッグには脇にメッシュのアウトポケットが付いているのはよく見かける。今回購入したカバンの脇を測ってみると、そうした脇ポケットをつける余地は十分にあった。このひと工夫があれば私の「小さなこだわり」に応えてくれたことだろう。
前回は「カバン」は道を歩く伴侶という表現を使ったが、それだけにこだわりの強いモノだけに「微に入り細に入り」といったモノづくりを日本の職人に期待する。無論素材や縫製、取り付ける金具、ジッパーに至るまでベストなものを備えたものであることは言うまでもない。
2019.7.9 充電(1)
最初は電気的充電について、身の回りに機器から見ていくことにする。次回(2)で気持ちを切り替える充電ということに触れることにする。
まず結構私の持ち物には充電器が必要なものが多くある。これらの機器は長持ちするモノも数時間で電池切れを起こすモノもある。どちらも栄養補給のようなもので欠かすことができない。
今も足元には4個の機器が充電中である。誰でも知っているのはスマホで満充電で大体3日ぐらいは持つ。その隣にはiPadでこれは使い方によるが、私は野球はMLBも含めて毎日見るので、結構iPadの方も熱くなり6時間ぐらい連続してみれば空になる。いつもは残量30%を目途に充電している。実はiPodTouchも長年使っており、サービスも終わっているが、ついに最近になって充電池が寿命を迎えたらしく充電器だけでは10分程度ほどしか機能しなくなった。個人では充電池は交換できない機種が多くなったのは、劣化した時本当に不便だ。たしかボタン電池などは交換が面倒だが、電池トラブルで苦労することはない。
話が脱線しかかっているが、イヤホンも私は無線のブルートゥースというのを使っているが、これは毎日充電しないと持たない。それはiPadなどで野球観戦をするとき使うので結構長時間使用するからである。
こうした小さい機器は当たり外れがあるようで二つあるうちの一つは内蔵の電池(リチューム)が不安定で多分もうすぐダメになるだろう。僅か半年で使用不能というのは「外れ」の部類に入るだろう。他にもブレスレット型のスマートウォッチを使っているが、電池切れ警告マークが出るのが一週間目ぐらいで繰り返し充電して、もう一年ぐらい使っているが、風呂などにも付けたまま入る。これは禁止項目なのだが、壊れもせずタフに活動しているから「当たり」の機器といえよう。この時計は歩数計が付いているので購入したが、文字盤の部分は外の明るいところでは見えないのが「玉に瑕(たまにきず)」といったところか。
他にもカメラなども電池が必要であるが、さすがに値段が高い(メイドインジャパン製)だけあって2個の電池を充電して持ち歩けば、外の取材で電池切れを起こしたことは一度も無い。私のHPの写真や動画はすべてこのカメラの仕事である。
こうして見ていくと何と私たちの身の回りが電池に頼っているかということが分かる。使い捨て電池を使う機器はだんだんと少なくなっていて、こうした充電型内蔵電池でエコだと称し、交換不能なものが増えているのは「どうかな」と思う。これもひとつの社会現象とでも言ったらよいのだろうか。
2019.7.13 充電(2)
今回は充電と言っても物理的なものでなく、心理的なもの、言い替えれば気分転換のようなものを紹介する。
これから夏休みのシーズンに入るが、諸外国では長期のバカンスを取るという習慣がある。私の記憶では昭和の時代で今とは全然違うとは思うが、夏休みは5日程度で土曜日は半日働いていたから、結局せいぜい1回家族旅行のサービスぐらいで済ませ、年間の休暇も殆ど取らないというのが当たり前の世界だった。今の人には想像もつかない滅私奉公とも言える日常が恒常化していたものである。
それでも私は残業などはしない主義で、5時を過ぎれば麻雀屋に直行し、帰宅は深夜というのがライフスタイルになっていた。まさに「亭主元気で留守が良い」を地で行ったのだが、これは決して健康的充電(気分転換にはなるが職場での付き合いの一環でもある)ではなかったことは確かである。
それでは本来的充電とはと問われると経験がないのではっきりとは言えないのが正直なところだ。それでもこの歳になって暇を持て余すようになると、他人の行動から推測すると次のようなことが言えそうである。インターネットの生活百科の知恵を借りると、結構沢山充電に当たる行為があるのに気が付く。項目だけでも10以上あるので「なるほど」といった項目だけをピックアップしてみた。ついでに短いコメントもつけてみた。「食の欲望を満たす(食べたいものをたらふく食べる。糖尿病患者には多くの規制があるので)」「ぐっすり眠れること(記憶がない)」「一人でオフを満喫する(大体オフは4人で満喫する)」「新しいことを始める(これは私が75歳からこのHPを運営していることからして、おすすめする。それなりの覚悟が必要)」「多くの人と談笑する(つい最近少人数の中学時代のクラス会に行ったが、気分は昨日の続きといったように気持が軽くなる)」「本を読んだり音楽を聴く(これは習慣化かすれば誰でもできる。多くを読み、好きな音楽を聴くのは確かに頭の栄養補給になる)」
以上紙数の関係でこれくらいにして、結論を言うと「人間の心という目に見えない存在は、案外、バッテリーがなくなりやすい」ということから、充電の必要性が非常に重要で、上記のどれでもいいので試してみることをお薦めする。
2019.7.16 キャッシュレス
物を買ったり飲み食いする時、財布の中身と相談するのが当たり前の時代に私は生きてきた。今は一円の金も持たずに生活できてしまうらしい。そういう社会をキャッシュレス時代と言うのだそうだ。
そう言えばいつの間にか私の買い物もamazonやyahoo(楽天)で購入することが多くなった。いつの間にかと言ってもそう古い話ではない。ここ2、3年だから最近のことである。それまでも電気製品などはヨドバシの割引のつくカードが得なので(ポイントが付く)使ってはいたが、現金を払ってポイントだけ貯めることの方が多かった。
私世代は財布から金を出して物を買う方が買ったという実感が強いのかもしれない。それだけ身近なところで品物を見て、触って買う習慣があり、お店も中小・零細なお店だからカード決済など少しも考えっていなかった。それは多分今も大して変わらないことだろう。
私にとってカード決済の最初は、給料の銀行振り込み化に始まったのだと思う。これは結構古く、私の基本口座はその時のまま数十年変わらない。拡大するネット販売に対抗してか、大きなお店も自店のキャッシュレス化を進めている。それに付き合わされて、財布の中身は金が消えカードばかり増えていく始末になっている。
キャッシュレス化の弊害は何と言っても、買うという実感が伴わずつい不用なものや重なるものを衝動買いするところにあるだろう。見えないところで金が消えていく、そんなからくりに踊らされ不要不急の買い物を慎まず、いつの間にか銀行残高が減っていく。底が見えるのも、こんなことをしていればもう間近。私個人の預金残高など露のように消えゆく運命にあるのだろうか。
今時点では銀行業務などを見ていても、銀行手帳にアナログ記入する人も多く見かけるし、銀行でも窓口で現金を受け取ったり、払い出したりしている姿を見ることができる。
こうした二重手間は過渡期には余儀ないことであって、中国のように一斉に「こうせよ」と決めてカード化を進めている国すらある。何れにせよキャッシュレス化の波は我が国においてもさらなる広がりを見せるに違いない。
年寄りたちは戸惑いながらもその流れの中に取り込まれて行くことになる。
次回はカード認証について考える。
2019.7.20 カード認証
今社会ではセキュリティーについて厳しくなり、いろいろな所でセキュリティーシステムを導入している。そのセキュリティーに使われるのが、VISAカードなどのようなカードで認証する方式である。
ビックリしたのはこの認証という行為、簡単そうで中々込み入っていることを調べていて知った。そもそも認証ということから解き明かしていかなければならない。
先ず認証とは当事者と相手がいて成り立つ。例えばバンクカードを例にとると、銀行がカードを登録した相手を認証するという仕組になる。このことを相手認証というのだそうだ。これを正確に言うと(wikipediaによる)「 AがBに自分が本当にAである事を証明するとき、BはAを認証すると言い、Aを被認証者、Bを認証者と呼ぶ」ということになる。
この相手認証は大きく分けて2つに分類される。それを資格認証と属性認証と言う。資格認証を例示すると、身近な例では21日に行われる参議院選挙に投票する際提示する「選挙権がある事を証明する為の投票所入場券」が上げられる。他にも私が日常使用しているパソコンなどもセキュリティーとしてパスワードを入力する必要がある。これはコンピュータにログインする権限がある事を証明するための行為である。運転免許証なども相手認証の中に入る。また最初に示したバンクカードなども相手認証である。
もう一つの属性認証というのは、例えば、酒や煙草を購入する際に成人であることを証明する認証行為(年齢認証)が上げられる。また選挙の場合は資格認証と同時に選挙権があるという属性を証明する属性認証でもある。
そうしたことを踏まえた上で、実際生活上どんなカードが使われているか示してみよう。私は電車をよく利用していた。最近出かける機会が減ったが、その時使うのがスイカ(suica)である。ついでに駅内での買い物は全部このカードで決済できる。ただし3,000円ごとに自動的にチャージされる仕組みになっており、その背後にはvisaカードの大きなシステムが控えている。
私の知り合いのマンションなどは、我が家のマンションとは大違いのセキュリティシステムでカードでマンションの入口を開けたり、来訪者はインターフォンで入口から来意を告げ、居住者がリモートで扉を開いてくれるといった仕組みになっている。
セキュリティーを中心にカード認証の一端を今回は紹介した。この認証システムは中々深いので、またの機会に詳しく検証したいと考えている。
2019.7.24 目の先2m
現在腰のリハビリとして日頃の散歩を心掛けているが、まだ足の動きが安定していない。そこで遠くを見て歩くと"しんどい"と思って心が萎える。そこでなるべく遠くを見ずに、目の前だけを見て歩幅を揃えて歩くようにした。その仕方は目の先2mに焦点を合わせて歩くということである。そうすると歩くことだけに集中できる。目先に拘るという表現はあんまりいい意味には使われないが、あまり先を見るというのも今の自分には現実的ではないような気がする。
目の先2mは必ずしも歩くことだけの焦点合わせではないかもしれない。私のこれからの生き方にも関わる問題と言ってもいいだろう。当然そこには年齢に相応しい生き方というものがある。それが「目の先2m」という考え方で、もうあまり先を見越して色々人生設計する必要はないから、ざっくばらんに言えば、今自分の身の丈で生きる。すなわち禅語に見る「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」という言葉がにわかに現実味を帯びてくる。言い換えれば「肩の力を抜いて、こだわりのない生活をしよう」という生き方である。
今更人生論ではないが、何と言っても目の前2mの範囲内だから、人目には気がつくような変化は見えないはずである。これは気持ちの持ち方に関わることであって、人それぞれのライフスタイルなどは100人100様であっても何もおかしいことではない。
2mというと近視眼的見方に思えるが、これで結構足元が良く見えて、高齢者にありがちなケアレスミスの最も大きい「転ぶ」ということを回避することができる。人生「七転び八起き」というけれど、この歳での「一転び」は致命傷である。近視眼的になると、何やら小さい事に「こだわる」というイメージで、先の言葉と相反するように聞こえるだろうが、そうではなく小さいことでも観察眼を大きく持てば、今まで常識的に捉えていたことが180度違う世界に誘ってくれることだってある。
最近片方の目の白内障手術をして、視力が回復し、今まで使っていたメガネが使えなくなり、新しくメガネを作り替えた。そのせいか相対的に視力が復活して、今までと違う別世界を見るようで、そのことも「目の先2m」論に通じているようだ。
2019.7.27 梅雨明け夏本番
今年はジメジメとした梅雨が長く、海開きも終わり、夏の土用の入が来たというのに空は灰色で時折雨がぱらつき、肌寒い日が続いていた。25日急に快晴夏日となり梅雨明けを感じさせたが、気象庁はまだ関東甲信越の梅雨明け宣言をしていない。
私はこの時期野球観戦(テレビとインターネット)に忙しいのだが、スカッと晴れた空の下で走り回る選手たちはさぞ暑いだろうが、こちらのほうが観ていて爽快である。
海の家も短い夏になるだろうが、これで息を吹き返すことだろう。子供たちも夏休み中にやっと水遊びができるようになった。このように暑い夏が季節感が強い。
夏の風物詩である花火大会も県内各地で毎週のように行われている。横浜市内では8月2日にみなとみらい臨港パークで「みなとみらいスマートフェスティバル2019」音楽とコラボした花火大会が予定されている。私も近くの見晴らし公園に昇れば借景できるが、足腰の今の状態では無理だろう。
もう一つ夏の風物詩に盆踊りがある。最近はお盆の時期を新暦8月15日(月遅れ盆)とする地域が多くなったi。これは旧暦7月15日が日本では農繁期にあたるので、新暦15日の農事の手が空いた時期をお盆にした。そうしたことから帰省などのお盆休みを企業などもとっている( 薮(やぶ)入りの名残か)。
話が逸れたが横浜の盆踊り大会として紹介するのは花火大会と同じ会場で「みなとみらいの盆踊り2019年 日時:8月16日(金)~8月17日(土) 時間:16:30~20:30 会場:臨港パーク」となっている。
花火大会も盆踊りも大体夕方から始まるので、日中の暑い時間は避けているので。お出かけになる方は浴衣がけなどで日本の伝統行事を楽しんでいただきたい。
今回は横浜市内それもMM地区ののイベントの広報をしてしまったが、形こそ変わってきているが、日本の夏の伝統行事は今も引き継がれていることは喜ばしいことである。
2019.7.31 暑さ対策(1)
7月29日にやっと関東甲信の梅雨明け宣言が出て、連日外は熱暑に見舞われている。夏の暑さはこれからで、今も昔も人々はこの暑さに対して色々工夫して凌いできた。今回はこうした伝統的な日本の暑さ対策に着目してみる。
連日熱中症対策を報道では呼びかける中、これを書いている部屋はエアコンがきいて涼しい。ちょっと気温が下がれば扇風機もある。昔はそんなものはなかった。では昔の人はどんな知恵を出してこの暑い夏を乗り切ったのだろう。
私が子どもの頃はよく打ち水をする光景を見かけたし、私も手伝った記憶がある。この打ち水はどんな効果があるのかというと「打ち水によって地面に水が撒かれると気化熱によって水は地面の熱を奪いながら蒸発する。すると、水が撒かれた周りの温度が下がって涼しく感じられるようになる。打ち水は気温が上がり始める朝か、日が落ちて気温が下がり始める夕方に行なうようにすると効果的に涼しく感じられるようになる。これは比較的気温が低い時間帯に水を撒くことで、ゆっくり水が蒸発して効果が長持ちする」ということになる。
伝統的日本家屋は夏の強い日差しを受けないように、部屋の外廻りに縁側をもうけ、屋根のひさしはとても長く造られていた。 私の生家も借家ではあったが、そのような構造で、どこの家も大体そういう造りだったように記憶している。
家全体を見ても、部屋と部屋の間仕切りは壁でなく襖(ふすま)で隔たれているため、この襖を全て開ければ部屋がつながって風通しが良くなるという工夫がみられた。廊下と座敷との間は障子で仕切られていて夏は開け放って外の風を取り込んでいた。子どもの頃はそうして広くなっていた家の中を走り回って、よく叱られたものだ。
更に直射日光を避けるためにすだれ(簾)やよしず(葦簀)が欠かせない季節道具であった。この違いをネットで調べてみると「吊るす簾と、立てかける葦簀と、どちらも、見た目に涼やかなだけでなく、遮光をしながら、隙間から涼風を取り込んでくれる。簾は、細く割った竹やアシという植物(ヨシとも呼ばれる)で作られているものが多く、部屋の中でも外でも吊るせる」とある。
よしず過ぎ 几帳も過ぎて 風通る 山口誓子