これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
詩を勉強する技として「闘詩( *二手に分かれて漢詩を作り、判者がその優劣を判定して勝ち負けを決める競技。歌合を漢詩で行うもの)」なるものがあって、それに夢中になって学校の勉強などはそっちのけにして競い合ったのだが、もともと漢詩は子どもには難しくて、上達の歩みは遅々として進まなかった。
この会は明治十五年の秋ごろまで続いた。小生が軍談(*軍記物を節おもしろく読み聞かせる寄席)を好きになったのは明治十二、三年ごろに始まったのだが、親が許してくれないので、月に一度か二度くらいしか行くことはできなかった。
小説を読むということもその頃で、浅井氏の蔵書の中の『源平盛衰記』『保元』『平治物語』などを読み始めたのだが、ついに書肆(*しょし:本屋)に行って本を借りることを覚え、主に馬琴の著作(*『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』)を読んだ。人情本は東京に出てきて始めて知った。
小生が和歌を始めたのは明治十八年井出真棹先生の許(もと)を訪ねた時に始まる。俳句を作ったのは明治二十年大原其戎(おおはらきじゅう)宗匠の門を叩いたのが始めだった。このようにして小生は哲学を志しているのにもかかわらず、詩歌をこよなく愛していたし、小説なくしては夜も明けぬという思いであった。
小生が不思議に思うのは、どうして哲学というものと詩歌小説という全く反対の両極にあるものは両立しないのか(なぜ反対だと思うかと言えば哲学者は四角四面な者であって文芸ののように枝葉末節にこだわる取るに足らないものではない。僧侶が小説を書くことは無いし、スペンサー(著者注ではこの当時この人のほかに哲学者を知らなかった。一笑*Herbert Spencerは、イギリスの哲学者•社会学者。社会進化論を唱えた)が詩歌を作ったという話も聞かない。哲学も詩歌も同時に好むということは変だなと思った。
自分としてはどちらにしていいか決めかねていた。目的は哲学であり、詩歌は遊びであると表向き触れ廻っていたが、陰では哲学と詩歌の間には何か関係があるだろうとは思っていた。その後ようやく審美学(*森鴎外により「審美学」という訳語が与えられたが、現在では美学と呼称される)というのがあると知った。この学問が詩歌・書画のような美術を哲学的に議論するものであることを知ってから、わが意を得たりと胸を躍らせた(原文:顔色欣欣として雀躍する思い)たという思いが生じ、遂に小生の目的はこちら(美学)にむかった。まさに今年(*明治21年)のことであった。
*印は編者脚注
(この作は当時色々な学問がまだ確立しておらず混沌としていた様が面白い)2019.3.17