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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ抄現代訳 第十六話 歴史の教授法

 
 この頃(*明治22年)学校で西洋人に歴史の授業を受けた。ただ固有名詞や年月などを記憶させることが中心で大体の変遷を教えることには注意を払っていなかった。なお聞くところによれば日本歴史、支那(*中国)歴史の教授もやはり事実(*固有名詞や年月)に重点を置いているとのことだ。
 この場合は西洋風であるのだが、小生(*原文は「余」これ以降は「自分」と訳す)には一つもその良い面は見い出すことは出来なかった。教師たるものは意識して大体の変遷(*いきさつ)は理解していなけえればならない筈である。たとえ分からなくても事実を知ったらその間に自然と変遷の中身を知らなければならないのではなかろうか。自分はこの教授法には納得がいかない。よしんば一歩譲って、これを是としたとしても、なお地名、人名、年月を記憶させる必要はないと思う。
 もし、歴史専門に修める人であれば、或いはその必要はあるであろう。だがしかし専門家でないのなら、こんなことは知る必要はない。またたとえ必要があるとしても、その場合は歴史書を紐解けば簡単に分かることである。それでもなおこれらの事実について明るいことに越したことはないし、記憶すればそれだけプラスになることに間違いはないが、何と言っても記憶したことを明日学校で教師が問いただしても、その時までは覚えているが、明後日になってしまえば、からっきし頭の片隅にも残っていないものだ。
 そうであるので、こんなために費やす時間は莫大で、その時間は毎回3~4時間もかかる。
 嗚呼(ああ)彼ら(*教授たち)は生徒を愚かにするつもりなのか、記憶力を養って、判断力を削ろうというのか、実に訳のわからんことだ。2019.4.21


 

 

 

 

 

 

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