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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ抄現代訳 第十七話 漢字ノ利害

 
 漢字は不便だという説が多い。西洋の人もこの種の文字を第三等として、最も下級な扱いにしているのだが自分の考えは大きくこれと異なる。なるほど今の漢字では面倒なことと難しいことの二つがあるので、多少の弊害はあるものの、その利(*利害の利)も少なくない。
 先ず第一に一字づつ意味を含む故事を簡単に書き出してみるとよい。今例えば汽車に乗ってある町を通過する際に店頭の看板を見るとしたなら、ローマ字で書いた看板ならば容易に読み取ることはできない。一綴りか二綴りか読む間に汽車は通り過ぎてしまう。日本字ならば母音子音が一緒なのでローマ字の倍は読むことができる。もしまた漢字ならば三、四字で済むから一目で看板を読みつくすことができる。また文章は簡単に書く方がどうしても面白いから、つまらないことでも漢字に書けば(もっと上手に)雅致(*風流な味わい。上品な風情)があることが多い。
 「樹古而禿(*じゅこじとく:禿ている古木の意か)」とかいう成句を見たことがある。これなどは別にその句に面白い趣向があるわけではないが、英語や日本語に訳せば長くなってつまらないものだ。ただ四字に書き詰めてその意としたことをつくすことで何となく面白く感じる。そういうわけで漢字には趣向の巧拙のほかに字句の巧拙があることは他国の文とは比べ物にならない。
 竹村錬卿がかつて自分(*私)に向かって「我詩を作る時には初めより趣向を考へず字句を見てかへりみて趣向を思ひ出すなり」と仰った。実にその通りで漢文漢詩は字句に大きな関係を持つことが多い。「もし短ければよいというのであれば、たとえ漢文漢詩といっても、日本流に句読点をつけて読めば興味は失せてしまう」という者がいるが、自分はこれに答えて「その通り」と言う。
 日本流に読めば興味は薄い。そういうことだから詩を知らない人は詩を見ても面白いとも何とも思わない。しかし、詩を知るに従って段々とその妙味を理解するので、読むのは日本口調で読むにしても、実は口で読む前に目で見て(*黙読して)その面白さを知る人は多い。
 というわけで、「千里篤啼緑映紅」といふ句を「千里鶯啼いて緑、紅に映ず」と書くと何となく馴染めないように思えてくる。また弊害を上げるとテニハの類(たぐい)が少ないのと、時(現在、過去、来来)はっきりしないのと、字画のむつかしいのと、発音の同じのが多いのは、記憶に不都合だといふ説があるが、その弊害は仮名に置き換えていけば簡単に防ぐことができる。
 西洋の文字であっても文字だけは容易く(たやすく)覚えられるだろうが、語を覚えるということの難しは中国語も同じである。ただ中国語においては「音」は分かっても字は書けないという弊害があるので、それは仮名を普通に通用できるようにしてやれば、学問のない人間にも簡単に理解できるし、知らない字は仮名書きすれば不都合は起こらないものである。2019.5.6


 

 

 

 

 

 

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