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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ抄現代訳 第十八話 日本語ノ利害

 
 日本語は言うまでもなく活発勇壮な語に乏しく、従ってこのような形容をするのは難しいのだが、その代わりに優美でおとなしい形容をするのには向いているのは人の知るところである。
 その中でも掛け言葉のよなものは、日本語特有のものであり、省筆法にもなる(文書は短くて意味が多いものほど面白い)。また掛け具合にも巧拙があって、詩文小説などには欠くことができないほどの要素である。人によっては掛け言葉は卑しいものだからやめた方がいいと言うが、それは掛け様の悪いものに関して言うべき言葉で、決して廃止するようなことがあってはならない。
 篁村(こうそん* 島田 篁村(天保9年8月18日(1838年10月6日) - 明治31年(1898年)8月27日)は明治時代の漢学者。東京帝国大学文科大学教授正四位勲三等文学博士。)翁の文には所々難しくて、突然掛け言葉を使って句調を崩すところが多いことは、翁には似合わないことで、滑稽文以外はこんなことは止めてもらいたい。
 また日本文の弊害は同音の字が多い(これは掛け言葉のもとになった源故文学にはいいけれども、実際には困ることが多く間違いやすい。動詞や形容詞の掛かるところもはっきりしない。これは句読点(パンクチュエーション)の規則を厳密に定めて、これに従うようにすれば、幾分か分かりやすく改まることだ。
 「書物を読み棊(*碁)を打つのは止めよ」という言葉は読書も囲碁も両方とも止めよとも聞こえる。また囲碁を止めて読書せよとも聞こえる。それでも前の方が通例の意味だから、このように書いた言葉は前者を意味するとし、もし後者のような意味を表現したいのなら「書を読
みて(*この「て」一文字の追加がポイント)碁を打つな」とか「碁を打つを止めて書を読め」とか書くようにすべきである。
 また「涙をかわかしたハンケチでふきて」という文の「かわかした」という言葉はちょっと読みはじめには涙につく詞(*ことば)のように思えるので、読み直した後でハンケチにつく言葉と認識できる。このような次第では不都合だし、かつ文の味がぬけるため、こういうところには点を打つか間隙(*空白)をおくかして「涙を 乾かしたハンケチで」とか決めたいものである。
 また人の言語も分かりにくいところは「」を付けるか、または新しい行より書き始めるかしたほうが、よほど読者の興味を引き付けることが多いに違いない。2019.5.13
 


 

 

 

 

 

 

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