これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
人は器械ではない。また禽獣(*きんじゅう:鳥獣のこと)でもない。即ち人間は意思があるので、行為を右や左と言ったように選ぶことができることが尊いものなのだと、西のひじり(*西行法師のことか?)も言っている。立派な家に住んでうまい肉を食べたいものだと思うのは聖人と言っても同じことである。
ただその情欲を節度で律して、人に害を与えたり、身体を傷つけたりしないからこそ、仏とか悟っているなどと言うのである。漢文で表現すれば「徳行( *とっこう:徳の高い行い)の君子」とでもいうのだろう。
しかるに私ほど意思の力の弱いものはきっと少ないだろう。やるべきだと思っていることも為し得ないことが多く、やるべきではないと固く思っていることでも、いつの間にか手を出してしまうようになることがよくある。大食いを禁止しようと思いながら、ご馳走を突き付けられては箸をとらざる訳に行かず、悪口を言うのはよくないと知りながら、嫌な奴だと思えばその悪事や欠点をわざわざ他人に吹聴することが好きだ。ことに他人を冷笑し軽蔑し人の揚げ足を取り、または頭ごなしにすることがおびただしい。
度々忠告してくれる友もいるのだが、何分にも癖になっているので直らない。私はこうしたことは禽獣というよりはむしろ器械的な運動と言いたい。なぜなら他人に対しても人が私を厚遇してくれれば、私もまた彼を厚遇する。また人が私に対して冷遇する時には私もまた彼を冷遇する。人が私に無礼な発言を浴びせれば、私もまた彼に一言無礼な発言で応ずる。人が怒れば私も怒り人笑えば私も笑う。
あたかも物体が受けるだけの圧力を以てその物を推し返す。当たったと同じ角度でこれをはね返す。飛んできた速度ではね返すのと同じである。
人が怒って私を殴っても私は笑を以てこれを受ける。人が私に怨みを持っているとしても私は人に恩を以て報いるいうになって、はじめて人間と言えるであろう。
ああ浅ましい我が身の、なんとひどく煩悩に落ち込んで悟りの見えない俗人であることだろうか。2019.7.7