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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ抄現代訳 第二十三話 古池の吟

 

 「古池や蛙飛び込む水の音」とは誰でも知っている蕉翁(*芭蕉)の句であるが、その意味を知っている者は少ない。私は六、七年前にある人の話を聞いたのだが、この句は「ふかみ(*ふ:古池、か:蛙、み:水)」の三字を折句にしたものだそうだ。しかしその深意については我々のうかがい知ることではない。あたかも歌人の「ほのぼのと(*枕詞)」のようなものである云々と。
 私はこの説を信じてなかなか分からないなどと考えたことはない。ではあるがこの春スペンサーの文体論を読んだ時(minor image)をもって全体を表現する。これすなわち一部を上げて全体を現し、あるいは「さみしく」とは言わないで「自らさみしいように見せる」のが尤詩文(*いうしぶん:優れた詩)の妙味のあるところだと思い至り、思わず机を叩いて「古池や」の句の味を知って喜んだ。悟った後で考えてみれば、格別難しい意味でもなく、ただ池の閑静な有様を閑の字も静の字も使わないで表現したに過ぎないのだ。
 心敬僧都(*室町時代中期の天台宗の僧、連歌師)の句に「散る花の音聞く程の深山かな」という句がある。同じ意味なのだがどちらが優れどちらが劣るかということは知らない。そうは言ってみても心敬の句には「程の」という字があって、芭蕉の句にはこのような字はない。これは芭蕉の方が勝っているところであろうか。しかし趣向は心敬の作もなかなか非凡であって、決して芭蕉と比べて劣っているとは思えない。
 そこで生意気にも理論的に解明してみようといろいろ工夫した結果「散る花の音を聞きたる深山哉」としてみたが、なおなおおかしいところがあるようで句にならない。はてなと思いながら芭蕉の句を見ると「聞く」という文字はない。さてはと思い至って見ると、私の句は「聞く」という語を前のよりも長くしたため様になっていなかった。今度こそと思い直したのだが、終わりに「深山哉」と結ぶにはどうしても「聞く」という字を必要とするため、是非とも芭蕉流に変えなくてはならないということで「奥山やはらはらと散る花の音」としてみたけれども、どうも古池のような風致(*自然な味わい)がない。さりとてどこが悪いという理屈も見いだせない。謹んで大方の教えを待つ(*誰か助けて頂戴)。2019.7.14


 

 

 

 

 

 

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