これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
始めて日本の小説界に新しい局面をもたらし、紫式部、清少納言のような古臭さもなく、十返舎一九、式亭三馬のような滑稽物でもなく、滝沢馬琴の七五調でもなく、為永春水のようなワイセツ本でもなく、そうかといって「水滸伝」のような活劇を主題とするものでもなく、一代記(*伝記物)のように敵討ちをテーマとするものでもなく、偏向せず流派に属さず、人情を基本に据えコミカルな話題を交え、漢語を借りて言い回しを優雅なものとしている。実に西洋風のバタ臭さがなく日本の粋をうまく取り入れこれからの模範となる小説が出現した。『当世書生気質』である。
世の中の人たちはこの本を読んで驚愕したものだ。古めかしい手法を用いていた小説家はこの出現で目からうろこが落ちた。おまけに 春廼舎氏(*本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧):坪内逍遥)は小説も一つの美術であって、卑しむべきものものではないと声高に唱えて文壇に登場した。
実に馬琴をはじめとして今までの小説家は自ら小説を卑しめていた。それは概ね勧善懲悪という形式でその逃げ口としていた。彼らは心の中では小説を卑しめようとしたわけではない。如何せんこれを尊くする(*高める)手段がなかっただけ、すなわち何が高める道筋なのかが発見することができなかっただけなのだ。
春廼舎氏(*坪内逍遥)がこの迷夢(*あがき)を打破したことにより天下(*世の中)の多情多恨(* 多情なだけに、悔やまれることや恨みに思うようなこともまた多いこと:大辞林)の才能あるものは皆筆を揮って小説界に登壇することとなった。
それに応じて小説を掲載する新聞が続々と出てきた。それにより皆ようやくその風を受け止めるようになり、文体は春廼舎氏(*坪内逍遥)のいわゆる雅俗折衷(*明治初期に用いられた小説の一文体。平安時代の文語文に基づく表現法と日常的俗語とを混合した文体。ふつう、地の文は文語体、会話は口語体で書かれた)となり、その趣向(*小説の傾向)もお定まりの仇討や戊辰戦争などの題材から離れて、新趣向を起こすこととなっていった。続く 2019.912