homewatchimagepaint2017pre


  
これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ抄現代訳 第三十話 日本の小説(3)


 こうした時を経て遂に小説家も昔のような阿蒙(*あもう:いつまで経っても進歩しない人のことを指す)を脱して敏捷になり、投機心も盛んになって(*時流を読むのに長けてきた)今日(きょう)の大事はすぐさま小説のテーマに置き換えられるようになった。
 すなわち、磐梯山が破裂(*噴火)したと報じられれば当時の新聞小説は皆これを題材とする。今日(きょう)洪水の電報が届くと翌日の新聞紙面にはすでに洪水の小説が掲載されるという、実に手早い世の中になった。
 その後「佳人之奇遇(かじんのきぐう:東海散士(柴四朗)の政治小説)」が出版されて野暮な書生たちを喜ばせたものだが、その手法は千篇一律(*どれもこれも同じようなもの) で、従ってその文章も始めほどには面白くなくなった。ほんのちょっとの間で関心を持つものは者はいなくなった。かの『浮雲(*二葉亭四迷の小説)』というものが世の中に出てきて、言文一致を世の人に示したことから、新しきを好み、奇をてらうは世の常にして、日本の小説家の十中八九はこぞって言文一致を真似することになった。
 これよりも先に春廼舎氏(坪内逍遥)が始めて『書生気質』を出版するに際し、分冊にして雑誌風(*現在の小説新潮や小説現代などのようなスタイルか)に発行したところ、世間は皆その簡便さに気づき、ついには小説の雑誌が流行るようになった。
 今日の小説界を見ると大きく流行るのは青年小説家と小説雑誌と言文一致流の三つである。言葉を変えて言ってみれば、青年小説家が言文一致の小説を書いて雑誌に出す者が多いということである。またこの他に賤しむべきもので、笑止千万な流行は女史の名である(*女性を騙る)。生半可な知識しかないののに女性名で小説を書くのは片腹痛いことだが、これを読んでよだれを流す書生こそは痴愚(*下品にして愚か)の至りと言うしかない。
 このように男なのに女史の名を騙るに至っては馬鹿と言おうか小人と言おうか、筆舌に尽くしがたい痴れ者(*阿呆)である。2019.9.20

 

 

 

 

 

Copyright 2013 Papa's Pocket All Right Reserved.