これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
天下の事を大別すれば実際と学問との二つに分るべし(*広くこの世のことを考えると、現実社会と学問の世界という2つに分けて考えられる)。
学問を更に分けて法・医・文・理の四つとする。こうした上で我々はこの五科中(*一つ増えている。外語学科がそれに相当するのだろうか?)それを更に細分化したものを学ぶに過ぎないのだから、よほど区域(*領域)の狭いものなのである。ところがこのように細分化しても到底ひとりではことごとく知り尽くすということなどできないものである。このことはすなわち、細別中の細別を(*細かく分けられた中で更に細かい分野)学ぶことになる訳である。甚だしいものはその細分化された中で更に細分化し、それをまた細分化するところまでいくものもある。
こういうと世の中の俗人(*一般人)たちはその意味を理解しないだろう。
そうであるなら世の学者が専門的に学ぶものは針の先ほどに小さい部分ではないだろうか。でもこれは表面から見た議論に過ぎない。内側に立ち入れば中々そう簡単なものではなくて一口に言って済ませるようなものでもない。
たとえば一里四方の館があるとして、これを外から見るのは簡単だが、その家の構造を解き明かしていくことは、そこに住む者でなければ到底分からないことである。
例えば文科を分けて八学科として、その中の哲学一つを取り上げても純正哲学、心理哲学、論理哲学、倫理哲学、宗教哲学、社会哲学、歴史哲学、政治哲学、審美哲学等の区別がある。いかにも細分化されているように見えるが、この中の心理哲学をみても諸派が存在する。大別すると主観的、客観的と区分し、客観的心理学の中にも生理的心理学、試験的心理学、病痾(*びょうあ:長びいてなかなか治らない病気)心理学、人類心理学、嬰児(えいじ)心理学、比較的心理学、民俗心理学の名称があるのだから、俗人には思いもよらないことだろう。
今仮に審美哲学を取り上げてその区域(*分野)を細かく論ずることにしよう。先ず第一にこの学問は感情による心の有り様であるが故に、心理学を学ぶことは言うまでもない。感情は五感の刺激により発するものだから、その構造の仕組みを知るためには、是非とも生理学を知らなければならない。殊に生理学の必要なことは、これから言うように感情の原因となるだけでなく、また結果ともなるところにある。
即ち感情が激しければ顔面の神経に表れる、赤くなったり青くなったり、眉をひそめたり、目をみはり、口をとがらすといったように表されるのがその例である。続く 2019.9.28