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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

  筆まかせ抄現代訳 第三十五話 言文一致の利害(1)


 言文一致論者の言うことには、文章は誰にでも分かるように書くことを第一とする。そうするには言葉通りを筆に写すようにする。紫式部が「源氏(*源氏物語)」を書いた時もその時の言葉をそのまま筆で書いただけである。古雅(*古めかしい)だなあと思うのは後世のひが目(*偏見)であって、言葉の変遷が行われたためだとかなどと色々といわれている。私はその訳は知らないが、文書は分かりやすく書く(文学なども)のが良いのかどうかは、いまだに判断つけがたいのだが、気分的に言えば私は強く言文一致を許せないと思っている。許せないといってもそれは時と場合による。演説、談話、講釈の筆記、小説、紀行などの文章中の言葉、会話の部分その他俗人、無学の人に向かっての告示、手紙、子ども(小学生)などのもっとも幼稚な者たちに、習わせる文章、教訓の類は言文一致で分かりやすく知らしめるのがいいだろう。通例の文章で書くよりもかえって語気をあらわし、紙上に喜怒の色を溢れさせて、あるいは一読して分かりやすい。難しい理屈も存外たやすく分かることが多い。されどもそのほかの文学において何を苦しんでまで言文一致にする必要があるのだろう。
 何の必要があって言文一致にするのか、言文一致はとかくくどくてうるさく長々しいものである。したがって読みにくく、解りにくく、あるいは欠伸(あくび)が出るところが多い。このように不都合な文章を何で書くのかと言えば、なるべく素人(しろうと)に分かりやすくするというのに外ならない。
 とは言っても小説は衆人(*一般大衆)に分かりやすくするように書くのが目的なのどうかは簡単に論定(*議論)すべきではない。私ももとより分かりにくいのをよしとする者ではないが必ずしも多衆の愚民に向かってこしらえる(発刊する)ことを目的にする必要はないと信ずるものである。
 かの「論語」のようなものも今の言文一致者流の言文一致では全くない。「源語(*源氏物語の略称)」の地の文に「侍る(はべる)」というようなことを挟み込むのは、今の人が「ネー」「ナー」「デス」などの言葉を挟むのと同じことである。
2019.10.31
 

 

 

 

 

 

 

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