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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

  筆まかせ抄現代訳 第三十六話 言文一致の利害(2)


 それは何故かというと、文字がある以上は到底免れることのできないことなのだ。いやいやこれこそ文字を利用するということなのである。はじめに文字という符牒(*意味をもたせた文字や図形。記号。符号)ができた時には言葉通りを写していたのだけれども、少し発達するのに従って文字を利用して、口なら長々しく言うところも短く文章に表し、対話ならば丁寧に言うところももじならば多少省略することができるようになった。
 しかるに「なり」という言葉をやめて「です」「あります」もしくは「ございます」等の言葉をどうして使うのだろう。どうして簡単な語をすてて冗長な語を用いるのか。「ございます」という言も口で言い耳で聞く時は、むつかしく聞き苦しいとは思わないが、目で見、手で書くときは見にくく書きぐるしいものではないだろうか。
 言文一致論者は発音器(口)と揮毫器(きごうき:手)との難易(*使い方の違い?)を知らないのだろうか。聴官と視官が労働においては大きな違いがあるのを知らないのだろうか。これもあれも一緒くたにしてはならないものだ。「なり」の代わりに「です」を使えば両方ともに二字二音だから差しつかえなかろうということだろうが、確かにその通りである。ではあるが「「です」という言葉は礼儀上の言葉で比較上(目上とか目下という比較)の言葉である。
 もし、普通の人を対象にして書く小説の文面で「です」という字を書くとするならば、上等の人のために書く小説には「でございます」と書き、目下の者のために書く時は「だ」と書かねばならぬということになる。もしそれにかまわず常に「です」とか「だ」という言葉を用いることになると、おかしく聞こえるものである。どうしてかと言うと上等あるいは目上の人が読んで怒ることがあるからだ。下等あるいは目下の人が見てあまり丁寧なのも失笑を買うものである。ではあるが地の文(*文章や語り物などで、会話以外の説明や叙述の部分をいう)に礼儀上の言葉を使えば、その礼儀は著者が読者に対しての礼儀を欠いたものとみなさざるを得ないからである。
 そうしたことから礼儀を抜いた言葉(「なり」のような)を使えば誰が読んでも礼儀のことを考えないで済むので大いに気分のいいことである。
2019.11.8
 

 

 

 

 

 

 

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