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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

  筆まかせ現代訳 第三十七話 言文一致の利害(3)


 「なり」とか「ならん」とか「なりき」という程度の言葉を覚えることは、俗人にとってもそれほど難しいことではない。今では老爺、老婆はさておいて、今日(こんにち)の小学校に2,3年通った子供には自然に分かる言葉である。一年も教えれば十分に覚えこませることができる。もし単に分かりやすさに重きをおくとすれば「なり」と「です」の違いよりはむしろ、今日の言文一致者流(*言文一致を用いる者たち)が形容詞に用いる難しい言葉をやめて俗語を使って平たく言うのが良い(円朝<* 三遊亭圓朝(さんゆうてい えんちょう/天保10年4月1日(1839年5月13日) - 明治33年(1900年)8月11日)は、江戸時代末期(幕末)から明治に活躍した落語家>の話の筆記のように)。
 「視線」とか「鉛直(*水平面に対して垂直の方向)」というような言語は、3,4年学校に通った小学生などの歯にあう代物(*不向きなもののこと)ではない。言文一致者流の文は既に平易ではなく、解り難い。おまけに冗長なうえに雅味(*日本語らしい味わい)がない。地の文(* 小説における会話文以外の文章 のこと)に礼儀上の単語を使って読者に不愉快な思いをさせるのであれば、一つもいいところなどない。しかるに何を苦しんでか言文一致に拘るのか、これを無暗に主張する人、それにそそのかされて尻馬に乗る人、実に哀れな人々である。
 彼らは当たり前の文章が書けないのではないのだろうか。咄(*とつ:舌打ちする。驚きを発する声)奴輩(*どはい:あいつら)に何ができようか。彼らがたとえ3899万9999人(*当時の人口はおよそ4000万人だったのか?)を瞞着(*騙す)しおおせたとしても、残りの一人を騙すことはできない。
咄、奴輩何をかなす(原文。上記の通り)。2019.11.17
 

 

 

 

 

 

 

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