これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
対句(*修辞法の一つ。語格・表現形式が同一または類似している二つの句を相対して並べ、対照・強調の効果を与える表現。詩歌・漢詩文などに用いられる。「月に叢雲 (むらくも) 、花に風」など ついく:コトバンクより)は面白いものだ。通例の話にも、通例の文章にも相対して言うような句は最も面白い。『菜根譚(*通俗的な処世訓中国古典の思想書)』の例がこれに当たる。それゆえ詩においてはいうまでもない。通例の句にしてはつまらない句でも対句にすると面白くなる例は枚挙にいとまがない。
それに加えてこの対句というものは漢語の専売特許であって、日本語や西洋語には極めて少ない。
最近では詩人が作詞するのに、大体律(*「律詩」:中国の唐代に完成した近体詩の一種で、一首が八句から成る定型詩。一句が五字の五言律詩と七字の七言律詩とがある。二句ひと組を「聯(れん)」と呼び、第一・二句を首聯(起聯)、第三・四句を頷(がん)聯(前聯)、第五・六句を頸(けい)聯(後聯)、第七・八句を尾聯(結聯)という。頷聯と頸聯はそれぞれの二句が対句になっていなければならない。律。weblioより)を作るようだ。私もまた律以外で作るのは稀である。律(*律詩で一番有名なのは杜甫の「春望」
国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 烽火三月に連なり 家書萬金に抵る 白頭掻かけば更に短く 渾べて簪に勝えざらんと欲す)
(意味)
「国都長安は破壊され、ただ山と河ばかりになってしまった。
春が来て城郭の内には草木がぼうぼうと生い茂っている。
この乱れた時代を思うと花を見ても涙が出てくる。
家族と別れた悲しみに、鳥の声を聞いても心が痛む。
戦乱は三月に入っても続き、家族からの頼りは
滅多に届かないため万金に値するほど尊く思える。
白髪頭をかくと心労のため髪が短くなっており、
冠をとめるカンザシが結べないほどだ」
が示すように対句に工夫を凝らせば、別に面白くもない普通の句が多少は面白く聞こえるからだ。であるから構想なくして詩を作らざるを得ないときなどは律詩の方が容易い手法である。
とはいっても古詩、絶句などは工夫を凝らすことに重きを置いている。かつて蜀山人(*大田 南畝(おおた なんぽ)は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られている。別号、蜀山人。狂名、四方赤良(よものあから)。南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風)の作った狂詩(*狂歌)の連句に「柱ニ懸ク一本ノ欲(ホッス) 窓ニハ見ル百姓ノ雖(イエドモ)(*調べたが意味不明)」とある。狂体と言っても対句の妙である。ここまでやるかと感歎してしまう。
もしこの句を対にしないでどうして一句を取れようか。ただ面白くないだけでなく、結局何の意味もなさないことになる。第一編終わり。
2019.12.23