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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ抄現代訳 第五話 弥次喜多(三)


 程ヶ谷(保土ヶ谷)を過ぎてからは、もうとてもたまらず、道を歩く人には追い越され 、車屋には笑われて。悔しいけれども「これがこれから先の金殿玉楼(金や宝玉で飾った宮殿)になるのだ」などと蝉丸*(平安時代前期の歌人。「これやこの 行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌を詠んだという)気取りで半町も歩けばもう堪らず、小倉氏だけは疲れる様子もなく、はるか先の方をスタスタと行くが、清水、秋山両氏は後ろの方からヨボヨボとやって来る。待ち合わせて「オイどうだここら辺で一休みしようじゃないか」と言えば、二人はものもいわず、うれし涙を流してここで小休止。
 小倉氏の呼ぶ声に力づけられ、歩き始めたものの半町ほど行く間に秋山氏は早くも小生、清水の二人から大分離れてしまった。今度は小生らの待ち合わすのも待たずに、後ろの方から手を上げて「オオイ、休もう休もう」と叫んでいる。振り返ってみると秋山氏は道端に意気地なく休んでいる。
 おかしさに我慢できなかったが、自分も同じ思いだったので付き合うことにした。こうしてようやく戸塚の手前に来た時は12時だったので、とある草掛けの小屋に入って昼飯を食ったが、小生は東京を出てから初めての飯だったので、美味くてたまらなかったが、秋山氏は「喰いたくない」と言って飯は食わず、そこに寝転んだと同時にもう鼾の声だけ大きく立てていた。
 ほんのちょっと休んだところで秋山氏を揺り起こして「まだこれから3里以上あるが、行くかどうするか」と言うと、さすがの秋山氏もそれ以上強情を張りきれなくなって「帰ろう」と承知するどころか嘆願する有様であった。「これではとてもこの足では東京まではおろか神奈川までも難しい」と言っている。
 汽車賃でもあればいいかと思って、小倉氏に相談するとだ、何と「天*(天道)人を殺さず*( 天は人を見捨てたりはしないということ」で、小倉氏が意外にも金を持っていて四人の汽車賃のほかに10銭余り残るということで、その残りで道々梨を食いながらかろうじて神奈川に着いたのだが、神奈川に着いた頃には蟻の歩みにも似た状態に陥っている次第で、後の足が前足の指先までどうしても引けず、後ろ足のかかとがようやく前足の中頃に来る有様だったので、道を通る人は皆怪しんで振り返って、小さな子どもたちが走り回るのもうらやましかった。竜も魚となりては漁夫にとらるる習いとか、車夫の冷笑を尻目に浴びて停車場に辿り着いた。
 汽車に乗ることができて大安心し、昨夜以来苦しんで通って来た街道を眺めながら、一時のうちに新橋に着いた。先ずは弥次喜多の出来ぞこないのお粗末。
*は脚注2019.2.2

 


 

 

 

 

 

 

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