これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
この世の中にある諸々の事々は、大きい事も無限で、小さい事も無限である。ではあるが、人がそのことに気がつくのは、先ず大きい事の無限であって、小さい事の方は気づかないものである。
言い変えると大は「有」の観念に属し、小は「無」の観念に属するものなのである。小生幼少時(10歳から12歳ころ)「天は無限である」と言ったところ、友の一人が「そうじゃない限りなく遠くというのではなく、どこまでも遠くに行けば必ず壁のようなものが絶対にある」と応じた。小生再び尋ねた「それではその壁の先はどうなっているのか」と問うと、友は黙ってしまった。
この話は一般的に人が言ってる話(天は無限という論理)と同じことで、少しも変わらないものだが、これは小生がまだ幼少で一般的話を聞く前だったと覚えている。
一方で物を細分しても際限なしとか、時間も空間のように果てしないという考えに気付いたのは随分と後の事だったと覚えている。
何故ならば、小生が明治15年の頃「物極度ナシ」と題して中学校で演説したことがある。この時は「物が大なることには極限はない」と話したに過ぎず、小については論及しなかったと記憶している。2019.2.18