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郷土の歴史「神奈川区」(10)


第1章 原始・古代の神奈川
4.防人の里
(1)土師器(はじき)と須意器(すえき)

 下の写真は、神奈川通8丁目あたりでの下水工事の際、砂層中で発見された朱塗りの土師器の壺である(古墳時代造跡分布図A地点画像1)。出土したところは、往時の砂丘上か汀線あたりと推定できる。浦島ケ丘あたりに住んでいた人の用いたものか、漁民の手になったものかもしれない。器面には朱が塗られている。よくみると底部に近く小さな丸い穿孔が認められる。埋葬のためのものであったろう。
菅田町近隣の港北区の城郷中学校に、「土師器」と「須恵器」の杯が所蔵されている。出土遺跡の詳細は不明であるが、菅田町出土とある(画像2)。
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 古墳時代の前半の土器は、縄文・弥生時代の土器と同じように、一つ一つをたんねんに粘土を指でこねて形をつくる原始的な工法によるものであったが、 古墳時代中葉以降になると、 朝鮮から新しい土器の工法が渡来人たちにより導入された。
 粘土を指さきでこねまわすのではなく、轆轤(ろくろ)を使用し、同じ規格の品物を大量に製作することが可能となる。傾斜のゆるい丘陵の斜面を細長く掘りわって土塀と同じ要領で天井を覆い、上端を煙出しに下端を燃料の焚口にする窯(のぼり窯) をつくることによって、灰色をした肌の美しい陶質の土器を焼くことが出来るようになった。このような新しい土器を須恵器とよび、従来の伝統的な工法の延長線による土器を土師器と呼ぶ。

 三枚町の片倉住宅の北方、道を狭んだ低位の台地(古墳時代造跡分布図B地点)で、小数の土師器片とともに滑石製の紡錘車 (糸をつむときの整速器) を採集した。弥生時代になって、水稲耕作を中心とする食料生産活動を基礎とする生活に入ったが、古墳時代になると、食料獲得に費やした多くの時間と労力を他に必要な技術知識のための代償に支払えるようになる。
 大陸よりの新しい知識・技術を導入した専門工人の出現するところとなり、 これがまた、あらゆる生産活動の向上に役立った。専門工人は、生産技術をになう「品部」の出現となる。残念ながら、古墳時代の住居については、 神奈川区内での遺跡調査の記録をみないので具体的に紹介できない。
 他の発見例をもって説明すると、古墳時代になっても、一般的に縄文弥生時代と同じように竪穴式住居に住んでいた。初期の頃のものとしては、なかには一辺が三メートル余りの小さな方形の床面をもち、中央部に炉をもった、しかし柱穴を掘るほどでもなかったせいか、柱穴が認められない小屋掛程度のものもあったようである。古墳時代の後半ともなると、竪穴の大きさも大小不揃いとなり、 一辺が10m以上もある大きな堅穴式住居も現われてくる。中には土間の両側に間仕切りがあり、転び床の部屋を備えたものもある。炉にかわり「かまど」が壁面に築かれる。住居の大小、所有物の相異からは階層分化の進行がうかがえる。

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