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郷土の歴史「神奈川区」(11)


第1章 原始・古代の神奈川
4.防人の里
(2)郷土の古墳

 なんといっても、古墳時代は古墳の造営に社会の特徴をみる。残念ながら集落とともに、古墳調査のきちんとした記録は、神奈川区内にはこれまでのところみあたらない。 栗田谷の平尾台一本松に円墳があったこと、六角橋や西寺尾蕪ケ谷あたりに円墳、あるいは前方後円墳と思われる塚があったこと、羽沢の締打に横穴古墳があったこと、子安台の浅野学国敷地内にも横穴古墳があったこと、 高島台の東端には、 長さ10尺 (約3m余り)、高さ6、7尺(約2m余り)の横穴古墳があったことなどの記録(「横浜近郊文化史』石野瑛著)はみられるが、構造上の特徴、形態、埋葬状態、副葬品などの種類、出土の状態、立地条件などの詳細は知れない。とくに集落との関係も明らかでない。
 しかし、郷土の周囲の地域を見渡すとき、鶴見川本流域についてみると、上流域には、前方後方墳をふくめた稲荷前古墳群、円墳のあった朝光寺原古墳や市ケ尾横穴群があり、最近では早淵川上流域の矢崎山古墳群が発見調査されている。中流域では、南関東では一番最初の頃4世紀末~5世紀初のものとされる前方後円墳をはじめとした日吉・観音松古墳群や駒岡、上末吉の古墳群がある。

 また、帷子川流城のものとしては、軽并沢や瀬戸谷古墳があった。大規模な立派な前方後円墳、前方後方墳や円墳には、副葬品として、三角線神獣鏡・内行花文鏡など、鉄製の甲冑・刀・剣・鉄鏃などの武具、鉄製農具・工具、勾玉・管玉・小玉などの装飾品や、なかには埴輪が出土したりしている(画像11)。
 このあたりの地城に勢力を誇った地方豪族の出現を示したものとみられる4世記、5世紀頃のこの地域・武蔵と中央政府としての大和政権との関係を実証する文献はないが、6世記の様子を告げるものとして、8世紀の史料として有名な『日本書紀』の「安閑紀」に、武蔵国造(くにのみこやつ)笠原直使主(おみ)と同族小杵(おき)の国造(地方の首長としての地位)の争いに、大和朝延が介入しその結果、武蔵国に4つの屯倉(みやけ:朝廷の直轄地)を設置したことが記録されている。
 このことは、畿内に勢力をもった大和朝延を中心とする政治力が拡大して、 東国支配強化の楔(くさび)を南関東に打ち込んだことの反映ともみられる。 この頃に設置された屯倉の名が、 後の奈良・平安時代の郡の名に受けつがれる。 武蔵国に設置された4つの屯倉のうちの橘花屯倉が後の橘樹郡である。わが郷土神奈川区は、初期の橘樹郡に始んど属したところである。2019.4.16



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