2.神奈川の湊
(1)文書に現われた神奈川 神奈川の地名がはじめて文書に現われたのは文永3年(1266)5月で、執権北条時宗が武蔵目代に苑てた文書である(上部画像左側)。
鶴岡八幡宮領武藏國
稲目神奈河商郷役夫工
米事、如先下知状者、云御燈、
云御供、重色異他之間、被免、
除彼役了、以他計略、可令沙 ・
汰入其分云々、早任彼状、可令下
知之状如件
文水三年五月二日 花押(北集時宗)
武厳目代般
この文書によると 「武蔵国神奈河郷」と示されているが、 具体的には区内のどの範囲であるかは明確ではないが、鶴岡八幡宮の所領であること、また語役や税の免除をみとめた内容である。青木村の隣接地に神奈川郷があることがわかる。
鎌倉幕府は源氏三代で終ったあと、その全権を賴朝の妻政子とその一族、北条氏が据って武家政治を維持していった。
鎌倉時代になると経済活動も活発化し市場も多く開かれるようになった。人びとは商人を通じ、交易場で生活必需品を得るようになった。また、有力な御家人は鎌倉や京都などに出向し、質素な生活からだんだんとぜいたくで、はでな生活になっていった。そのため武士や寺社など領地から納められる一定の穀物等で生活するものは出費が增すばかりであった。
幕府は生産拡大をはかるため、承元元年(1207)、武蔵国の荒野等の開発を北条時房に命じたり、延承元年(1239)2月師岡保に隣接する小机保の島山地区の開発を御家人の佐々木泰組に命じている。また、仁治2年(1241)、鶴見郷に所領をもつ、秋田城介義景のところに本陣を置き、 武藤頼親を奉行として多摩川を改修して、水田を開く工事をすすめた。
(2)鶴見の合戦と幕府の減亡 執構北条氏の政治権力の元に戦った文永・弘安の役以後、急速におとろえていった。 北九州で戦った御家人への恩賞も不充分であり、 貨幣経済の発達にともなう財政難は御家人との支配関係を弱めるもとになった。 。
嫌倉側の様子を察知した京都側は後醍醐天皇を中心に倒幕計画がたてられ、 北条氏に不満をもつ御家人の参加をうながした。
元弘3年(1333)5月、新田義貞は倒幕のために南下し、多摩川の分倍川原で鎌倉幕府の北条泰家の軍と戦い、これを敗り、境川沿いに鎌倉へと突入していった。
また、下総(千葉県)の、千葉貞胤は江戸湾に沿つて武蔵に入り、北条側の、金沢貞将の軍と鶴見で戦つた。激戦の末、北条側を敗り鏡倉へと進んだ。神奈川、青木は権現山もあり、湊をかかえる地であるだけに鶴見付近と同様戦乱の渦にまきこまれたのであろう。
元弘3年8月、北条氏の本拠地、嫌倉は攻められ、鎌倉幕府140余年の幕をとじた。しかし、北条氏の遺子、北条時行が政情の定まらない虚をついで、建武2年(1335)7月、信濃(長野県)で挙兵し、一時は鎌倉を占領する勢いをみせた。これに対し、足利尊氏は京都から追討にかけつけ、つぎつぎと時行の軍を敗り、再び、鶴見で激戦を展開したが、北条軍は敗れ、時行は落ちのびていった。
(3)足利尊氏、神奈川の合戦 南北朝の対立の激しさの中で、尊氏は延元3年(1338)征夷大将軍に.任命され、京都・鎌倉を制し武家政治の確立をめざした。しかし、南朝側も新田義貞の子、義興・義宗や脇屋義助の子義治、信濃の諏訪氏らが後醍醐天皇の皇子、宗良親王を擁して正平7年(1352)足利尊氏討伐の兵をあげた。
足利尊氏を中心とした北朝側は鎌倉から神奈川の城に陣をおき、2月18日に新田義宗の軍と合戦、敗れて鎌倉に引き上げた。その時の様子を『園太暦』の中に載せられている覚譽法印の書状(文和元年3月4日付)でみてみよう。
・・・抑去月18日関東凶従等(足利尊氏ら北朝側)、没落武州狩野川(神奈川)之城一、官軍(南朝側、新田義宗ら)乗勝攻撃、大王(宗良親王)以下上州信州之堺臼居塔下まで已出御候て、諸方大軍如雲霞、可決雌雄之条、・・・
しかし、2月28日、武蔵小手指原の合戰で南朝側が敗北し、貴族政権を奪還しようとする夢は消え去り、尊氏は関東一円を支配し、子どもの足利基氏を関東管領として鎌倉におき、正平8年、京都に帰つた。これらの時も鎌倉中の道、下の道が利用されていた。その街道と湊をもつ拠点、神奈川一帯は鎌倉にとって重要なところであったのである(上部画像右側)。 2019.5.2