3.神奈川宿のころ(1)
(1)東海道ものがたり
江戸時代の神奈川宿は、 域下町の小田原と開港以後の横浜とを除いては、 神奈川県域で最大の都市であった。 これは束流道の宿駅として陸上交通の要衝であったことともに、さらにこの宿が港町でもあり、江戸とは一日で往復できる距離にあって、海陸両面から国内各地と物資の流通や人の往来、 それにともなう文化の流入があったためであり、さらに背後の農村地帯もこれを支える大きな力であった。
神奈川宿の始め 徳川家康は関ケ原の戦いに勝つて天下の実権をにぎると、その翌年の慶長6年(1601)1月、江戸と京都・大坂地方とを結ぶ最重要路として柬海道に伝馬の制を定めた。各宿に伝馬掟朱印状が下され、このとき横浜市域には保土ケ谷宿とともに神奈川宿が置かれた。神奈川宿に宛てた伝馬掟朱印状は、神奈川の甚左衛門所蔵文書として次のように伝えられている。
御朱印
定(印文伝馬朱印)
此御朱印なくして伝馬不可出者也、仍如件
慶長6年
正月日
このとき宿駅として定められた所は、東海道では多く鎌倉時代以来の宿が当てられていたといわれており、神奈川宿も中世以来海陸交通の要地であったので、早くから宿の役割を果たしていたものと考えられる。
慶長元年(1596)10月2日とされる江戸から小田原までの、御用石切伝馬についての幕府代官頭の伝馬証文にも品川の次に神奈川が指定されており、慶長2年6月2日とみられている三島(静岡県)から江戸までの幕府代官頭らの伝馬証文も、保土ケ谷の次に神奈川が記され、束海道伝馬掟の出される前から神奈川が宿駅の機能を負わされていたことを示している(村上直「近世初期における幕領支配と代官)。