3.神奈川宿のころ(2)
宿の任務
東海道の宿駅にははじめ36匹の馬を用意し積荷は1匹に31貫目(約112.5kg)までとなっていた。翌慶長7年に1駄41貫目(150kg)と改められ、寛永17年(1640)には馬100匹、人足100人を常備することとなった。神奈川宿から品川宿まで五里半(約22km)、保土ケ谷宿へ一里九町(約5km)の距離であった。のち元和9年(1623)川崎宿が置かれたので以来は江戸方面は川崎まで二里半(約9.8キロ)を継ぐようになった。
公用の旅行者の荷物は朱印あるいは幕府の証文によって定められた人馬を無償で使うことができた。定められた以上の人馬を使うときや大名の参動交代などは公定一賃銭(御定賃銭)で使つた。御定賃銭は物価の上昇とともにたびたび変動したが、 神奈川宿での江戸中期と下期の基準値段は次の通りである。
神奈川・川崎間
正徳元年 荷物114文 軽尻73文 人足56文
神奈川・保土ケ谷間 荷物49文 軽尻32文 人足25文
天保15年 荷物169文 軽尻114文 人足84文
安政6年 荷物169文 軽尻114文 人足84文
荷物は一駄40貫で軽尻は空荷とも荷なしともいい、人が乘つて荷をつけないもの5貫、目(約18.8kg)までの荷をつけることができる。
人が乗らなくても5貫目から20貫目までの荷は軽尻という。人足の荷物は5貫目までで、 それを越えると目方に応じて払つた。一般の旅人が使うときは相対賃銭で、公定価の2倍が普通だった。公用者も大名の参勤交代も一定数を越えて使う場合は公定価よりも高く払わなければならなかった。
これらの賃銭は幕末になるにつれてさらに上昇をつづけた。宿では宿中の馬のあるかぎり朱印あるいは御定賃銭の荷物を順次に付送りそれで不足する人馬は近村から雇つて、 風雨にかかわらず荷物が遅れないようにすることが命じられていた。のちには助郷の制度がはじまり不足の人馬を割当てるようになった。
東海道の宿駅の任務は公用の御伝馬の継送りと、これらの旅行者の宿泊・休息施設の提供であるが、 早期からその他の任務として江戸・大坂間の飛脚の業務があった。 このための継飛脚給米が各宿場に給与され、神奈川宿は23石2斗6升(米62俵3斗2升)であった。
上左図神奈川宿全景
上右図神奈川町の図 各図クリックして拡大
2019.5.22