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郷土の歴史「神奈川区」(16)


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3.神奈川宿のころ(3)
問屋場

 宿の業務を運営するために宿役人がいた。そのなかで重要なものが間屋で、人馬の継ぎ立て一切をつかさどり、問屋場で業務をおこない、宿内ではもっとも権力をもっていた。神奈川宿は青木と神奈川の両町から成つていたので、それぞれに間屋場があり青木町の間屋は名主と兼ねて本陣の鈴木源太左衛門が勤めていたことがわかっており、神奈川町では時代によって変っていた。間屋場は前記のように宝暦四年からは一か所にきまって、滝之橋から三百メートル東寄りの神奈川町荒宿の海側にあった。
 間屋の補佐役として数人の年寄がいて交代で間屋場につとめ、 問屋場にはほかに帳付や馬指などがいて、 宝暦4年にはこれらの宿役人が30人いたことがわかる。川時宿でも天明元年1781)に32人弘化元年(1844) に29人とほぼ同様である。
 寛政8年(1796)1月、道中本行からの申し渡しによるとこの頃、神奈川宿問屋の下役たちはシーズンになると菊の会、紅葉の会などと名づけ、浄瑠璃会などを催し、助郷村のものたちから金を集めて遊び、これに素直に応じないとその村から出る人足などに不当な扱いをするというがふとどきだと叱られている。だが、大行列のあるときなどこれをさばくのに問屋場の仕事は大変で、公用をかさにきた下級武士や人足たちにささいな言いがかりをつけられて、金品をねだられることがしばしばであった。 安政2年(1855)11月の姫君が京都から江戸に下向したときは、神奈川宿では1300人を越える継立てで大混雑をし、これにつけ込んで荷物の宰領と上方から雇われて付いてきた人足たちにゆすられ、28両3分余をむさぼり取られてしまった。 こうした金を取られることを天内入魂(じっこん)と呼び、このときは各宿とも同様なめにあいあまりのひどさに品川から小田原までの九ケ宿組合とその助郷村々が、道中奉行に内密で取締方を嘆願している。


本陣
 公家や大名、公用の上級武家が泊まる本陣は、滝之橋をはさんで橋近くに、西の海側に青木町本体の鈴木源太左衛門家と、東の山側に神奈川本陣の石井源左衛門家があり、 江戸中期以降はこの両家でつとめ、それぞれの町の名主でもあった。鈴木本陣の模様はよくわからないが、 石井本陣の構造は上右図の通りであった。
 これらを利用した大名は、天保2年(1841)から20年以前のあいだには休息と宿泊を入れて次の八家であったという (田中家資料)。
 これによると「松平加賀守(加賀前田家、二十年以前に休泊したが、それ以後は束海道通行なし)、松平陸摩守(薩摩島津家)、細川越中守(肥後細川家)、松平安芸(安芸毛利家、松平大膳太夫(長門毛利家)、松平因幡守、藤堂和泉守(伊賀藤堂家)」とある。 。次回は旅籠屋から
2019.6.16

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