3.神奈川宿のころ(4)
旅籠屋
神奈川宿の旅籠屋は19世紀に入つて享和3年(1803)には64軒、文政9年(1826)72軒とやや增え、天保14年(1843)58軒、安政2年(1855)57軒と減つて横ばいとなり、安政6年(1859) の横浜開港以後は横浜を利用する者が多くなって急速に転廃者が出て文久元年には27軒が残つていたが、明治3年(1870)にはさらに減つて11軒と衰勢をたどるようになった。安政2年にはこれらのほか茶屋が45軒(青木町23、うち煮売茶屋2、神奈川町21)あった。これらの茶屋は上方の入り口の台町と、江戸方入り口の並木のある新町からかみなし川土橋の西際にかけてずらりと軒を並べていた(上の左の図は青木町本陣)。
旅籠屋は滝の橋をはさんで宿の中央に並んでいて、これに挟まれて料理をもする軒の煮売り茶屋がまじっていた。 神奈川宿は江戸日本橋から7里(約28キロ)弱で、一日 行程では楽な距離であつたので、女、子ども連れや老人、先を急がない旅人に多く利用された。江戸中期以降になると庶民の富士登山や大山詣でがさかんになり、6月から7月がそのシ一ズンとして賑わい、上総・下総(千葉県)から船で内海を渡つて来るものもあり、 また金沢や三浦半島方面から江戸へ行く者も船でこの地へ上陸するコースをしばしば利用していた(上図右羽沢町の旅籠)。
横浜開港直後は渡海のコースが一切厳禁されて旅籠屋に泊る者が絶えてしまったとなげぃている青木町上台玉置氏記録)。
旅人は二日泊りが原則で、一人旅のものは泊めてはいけないとなっており神奈川宿でもしばしばこの禁止条項に触れて処罰されている。特殊なものとして文政10年(1872)11月の記録に神奈川宿に旅芝居宿というのがあった。
文政9年8月、代官所から旅籠屋の廃業や新規開業に支障ないか間い合わせのあったとき、 廃業したときの跡は相続人まかせであり、新規渡世は馬役、御伝馬の負担をする屋敷に限るとし、御伝馬屋敷にこうした特権をもたしていたことがわかる(石井家資料)。
食売女
神奈川宿では江戸やその近村から江の島などへ参詣する者が泊ると、食売女を酒の相手にさし出し、夜通し遊びさわいでいてけしからん、 火の元も不用心だし、宿や近在の若者へも悪影響があるから、 以後は時刻はずれまでも騒ぎ遊ぶのは厳禁する、と天保9年(1838)6月、幕府から取締りの触れが出された。
これによると、食売女は1軒に2人までに限る、華美な服装をさせたり遊女屋体のことはいけない、かの女たちを見世先へ並ばせないこと、客引きはいけない、宿内の者はもちろん助郷人足や近在の者を泊めない、芸者のようなものは置かないこと、などかずかずの禁止事項が並べられており、こうしたことが実際に行なわれていたことを示している。そのほか、旅籠屋でなくて食売女を抱えていて、旅籠屋からの求めに応じて稼ぎに出させる商売もはじまっていて、見番と称して芸者を置いた家もあり、いずれも禁じられているが、こうした禁令はすでに文政期にも出したが守られないといっており、天保期の凶作つづきの時代のなかで、封建の武士中心の世の中でも庶民の自由な遊興を求める気運は、押さえようのないほど強まってきていたことを明らかにするとともに、苦境に沈んでいた女性たちの存在の一半を示している。
神奈川宿の食売女を置いた旅籠屋は、 安政2年には全旅籠屋の半分の28軒であった。 この当時の資料によると(22軒、人数40人)かの女たちの年令は、最低は14歳が1人いるが、平均21歳強。生れは宿内(3人) や市域内もあるが多くは江戸(生国とかぎらない)から連れてこられた(23人)。年季は14歳の者を含め18~19年が3人いるが、短かくて2年、平均は9年弱。給金はまったくまちまちでどのように決められたものかわからないが、1年5両前後のものが目に付くといったところ。神奈川宿の旅籠屋清左衛門は天保元年(1830)4月、江戸深川に住む物心五郎の身寄り、ということで「きい」という娘を食売女に雇つた。請人は同じ深川の平五郎、口入れは亀吉。年季は4年6か月で、給金は17両1分の約束であったが、これでは不足だというのでさらに1両2分を亀吉に渡し都合18両3分になった。「きい」は「はま」と改名し勤めていたが翌年11月、夜中に姿が見えないので改めたところ所持の衣類が見えないため欠落ちと気づいた。 心当たりを探したが見えず、請人に知らせたが貧乏していて相手にならず、さらに探したところ2年過ぎて、房州久枝村の百姓の伜喜八が誘い出したとの風聞を聞いた。 これは惣五郎と喜八がなれ合いの仕事で、「きい」は連れ戻したが、給金欺取を計つたので欠落中に探し回つた入用を弁償してほしいと道中奉行所に訴え出ている。
神奈川宿の旅籠屋代助は、文政7年(1824)7月、江戸赤坂に住む紋次郎の身内ということで「ちか」を食売下女に抱えた。請人は戸塚宿旅籠屋の貢之助でかねての知り合いである。 年季は4年で給金は21両、一同立合いの上で渡した。 2年して文政9年6月、寅之助がきて、「ちか」の身分に故障ができたから暇をもらいたい、給金は残らず7月20日までに返すとのことで「ちか」を渡した。 日限になっても支払いがないので催促したが、常之助はとりとめない返事ばかり。不審に思って調べると「ちか」は戸塚宿清八方に食売奉公しているとわかった。 早速寅之助にかけ合つたが取りあわない。 これは寅之助の最初からの給金欺取の悪巧みで、このままでは旅籠屋が立ち行かないとして駈込み訴えをした。 裁判呼び出しの日を前にして扱人が入つて懸合い、結局寅之助が15両出し、6両は代助が勘弁するということで示談となった。 年季の途中でやめると全額返済のきまりのようである。
こうした食売女の給金出入は、神奈川宿で文政9年から天保4年までの7年間に、 裁判沙汰になったものが12件もあり、そのほか心中や自殺など含めて全部で16件の多きにのぼっている(石井家資料)。
左欄写真「食売女の図」2019.6.26