3.神奈川宿のころ(5)
幕末動乱期
慕末の動乱期に入るや、束海道の交通量は次第に增加の一途をたどり、宿も助郷も疲弊がはなはだしくなった。とくに箱根宿以東の宿や助郷は、奉水6年(1853)の。へリー来航以来、束海道の継立のほかに下田、浦賀への継立が頻繁となり、さらに困憊の度を增した。翌7年1月、。へリーが浦賀へ再入港のとき、浦賀表への往き帰りの役人が多いため、 品川から保土ケ谷宿まで四カ宿は共同して当分助郷を願い出てこの急場をしのいだ。
ペリー 退散後も各大名は家中の士を国元から呼び寄せたり、武器類の運搬などで混雑し、同年4月には当分助郷の継続を願い出ている(『品川町史』)。
七月には品川宿から小田原宿までの九ヵ宿は、沿岸防備の大名の家臣たちが、無法な人馬継立を要請するのに対し、断乎拒絶しようと改革の議定をしている。例の天内入魂ととなえて、出入人馬の無実のおちどをとらえていわれなき金銭を申しかけ、 朱印・証文を持つ役人たちが增長していると語気荒く怒りの情をあらわしている。
死力を尽くして継立 このように、東海道各宿、とくに横浜開港後の神奈川宿は人馬の負担が過重となり、 宿と定助郷、 定助郷と加助郷の対立という形になってあらわれてきて、 助郷村々の農民の困第も言語に絶するものがあった。
元治元年(1864)8月、 徳川家茂の長州征討のときは、東海道五十三力宿が同盟を結び、人馬継立に関して歎願せざるを得ない状況におかれ、慶応元年(1865)4月の長州再征のときは、 各宿協議の上辛うじて継立を終らせたが、 宿・助郷連名で增助郷を願い出ているが、 このなかで死力を尽くして継立を果たしたと述べている。
脇街道
五街道とその付属街道以外のものは、脇往還または脇街道・脇道などとよばれた。 脇街道でも主要なものは五街道と同様、宿駅には人馬を用意して公用の貨客には無賃ないし御定賃銭、それ以外は相対賃銭で継ぎ送り旅宿においては公定の宿賃をとった。
市域内には中原道と矢倉沢往還(大山道)があり、これらと神奈川宿とを結ぶ脇道があった。
飯田道・神奈川道
神奈川宿から滝ノ川沿いに小机方面へ抜ける道は、古くから飯田道と呼ばれていた。『新編武蔵風土記稿』にも「飯田町、西北へ折ル横町ナリ、コゝヨリ郡中小机ノ辺へ通ス、或ハ云フ小机ノ城ヲ飯田ノ城トモ呼フ故ニコノ名アリト、コゝニモ左右ニ町家軒ヲナラへリ」と書かれている。
この道は六角橋村を経て小机に達していたが、これがさらに北に延びて、中原道および矢倉沢往還と結んでいて神奈川道と呼ばれ、今もところどころに道標が残つている。
壇林道 飯田道から分かれて本覚寺裏を通つて三ツ沢豊顕寺へ通ずる道を壇林道と呼んだ。 豊顕寺は僧が学問修行をする壇林であったことからの名であった。
壇林道はほかに、束海道を芝生村との境あたりで分かれて、北へ向かい豊顕寺へ達するコースもあった。
2019.7.6