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郷土の歴史「神奈川区」19


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第3章 神奈川宿のころ(6)

(2)村のくらし 

きびしい検地

封建社会では農業が、主要な生産部門で、領主の財政はそのほとんどが農民から徴収する年貢(税金)によっていた。それで領主はその領内の村々からどれだけ年貢を取り立てることができるかを調べるため、村ごとに田畑屋敷などの所在地、面積、生産高および年貢を負担する人を詳細に調査させた。これが検地と呼ばれるものである。検地のときは大勢の役人が村に来て、名主・年寄など村の有力者の案内で一筆ごとに測量して面積を出し、田畑には上・ 中・下・下々の等級をっけ生産高を定めた。
村々のようす
 現在の神奈川区内にあった江戸時代の村々は、中央部南寄りに神奈川宿 (一部西区の区域を合む) があって、次に東側から西寺尾、東子安、西子安、新宿、白幡、六角橋、神大寺、片倉、三枚橋、下菅田、羽沢の一宿十一カ村であった。
 これらの村々の耕地は、概して田は少なく、畑が多かった。畑は台地に、田はその谷合いに耕された。土性は一般に劣っており、用水の便も悪く天水に頼るところが多かった。従って反当収量も低く、下菅田村の上田一石五斗が最高にして、普通は上田で一石、畑の方は上畑で八斗から七斗という状態であった。米以外の作物は大麦、小麦、粟、稗、大豆、菜種等の雑こく中心の裁培であった。商品作物は木綿や菜種などに見られるが、これも多くは自家田に消費され、売りに出されるのはごく少量であったようである。


 農業以外の余業については、 神奈川宿に宿場町としての特徴が見られ、 これにつづいて束海道沿いにあった新宿西・東子安の三村は街道村としての性格をもち、またこれら三村と神奈川猟師町には漁村としての影響が見られた。だが他の村々は宿場町をその中心部に持ちながら、宿場の影響をあまり受けない遅れた農村の状況を呈していた。
 東子安村、西子安村、新宿村 この三カ村は、江戸初期までは子安村として一村であったが、寛文8年(1648)、元禄8年(1695)に再度分割されて三カ村となった。ところがまた、明治7年(1874)には合併してもとに戻つたという事情が示すように、もともと地縁的に一体性を持つ地域であって、神奈川宿の東側に位置している。
 この三カ村の境界は、 むかしから定かではなかったようで、当時の記録にもことさら区別しないで単に子安として表現してある場合が多いので、一応まとまった地域として考えることにしたい。現在の地域として考えると子安、神之木、入江、大口、七島を併せた地域である。
『新編武蔵風土記稿( 以下単に『風土記稿』と記す)の記すところに従えば、田畑は西北部(現在の大口、七島、神之木方面)の山寄りの地域に集中していたという。しかし、南は流に面し、漁村としての機能を持ち、特に新宿村は御菜八カ浦の一つで漁師が多く、三村の漁業の賦税も同村で納めたというから、この村は三村のうちで「南子安村」ともいうべき位置にあった。
 田畑の面積の割合は大体同じくらいだが、畑がやや多い程度であり、土性は海辺が砂地で、奥の台地は野土でよくない。用水は天水に頼つており、旱損(ひでり)勝ちである。2019.7.12

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