memorytohkaidokouenmeisyokaze

郷土の歴史「神奈川区」20


zu1
zu2

第3章 神奈川宿のころ(7)

(2)村のくらし 
村々のようす(2)
 西子安村
 西子安村は村高が文政11年から243石と変らず、戸数は文政11年80戸、安政2年89戸、慶応3年96戸、人口は天保8年473人安政2年413人、慶応3年485人、耕地面積は元禄8年田13町5反、畑18町7反である。
 新宿村
 新宿村は、天保8年に村高40石、戸数88戸、人口487人で村高は以後明治まで変らず、戸数と人口は安政2年106戸、541人明治3年(1870)に112尸、683人とそれぞれ增えている。同年の111戸のうち、62尸が漁業で、農業28戸がこれに次いでいる。
西寺尾村西寺尾村は、東・西子安村、新宿村の北方に位置し、江戸時代以前は小机の庄に属していたという。東西のきわは台地になっていて、その下に民家があった。戸数は天保14年(1843)65戸、安政2年54戸、 人口は事保以後300人から350人程度を上下し、安政2年には295人となっている。
 村高は享保17年(1732)378石、安政2年には380石8斗4升5合と僅かに增えている。耕地面横は明治9年(1876)田22町、畑36町山54町となっている。
 白幡村
 白幡村は、神奈川宿と東・西子安村、新宿村に挾まれた位置にあり、現在の白幡の名を冠する各町を集めた地域である。
 村高は元緑8年223石、戸数28戸で、以後安政2年30戸と明治までほとんど変らない。人口は延宝3年(1675)113人であったのが、安政2年190人と增え明治5年(1872198人となっている。耕地面積は寛永20年(1643)田16町7反、畑12町9反、元禄8年田20町、畑20町と、田畑が同じくらいの割合になっている。反当収量は上田1石1斗、上畑7斗と低い。村内に林162ヵ所、計23町歩あり、松、杉、雑木立である。:神奈川宿と山一つへだてただけの当村も、その実態はこのような遅れた農村の姿を示していた(上の図絵)。
 六角橋村
 六角橋村は自幡村の西方、神奈川宿の北方にあり、現在の六角橋一、二丁目の大部分と三丁目から六丁目まで、それに中丸、栗田谷の北部を合めた地域と思われる。村内に平地は少なく、畑勝ちの村である。 村高は、正保126石、元禄2年(1689)129石であるが、元禄8年の検地で126石となり、以後ほとんど変わらない。戸数は寛文2年(1662)27戸人口は元文5年(1740)254人、幕末期には230人と若干減っているが、明治3年(1870)には255人と元へ復している。天保14年の調べでは大豆、小豆、木綿、粟稗、菜種を作付けしている。明治3年の「村明細帳」では「当村は畑勝ちであって平地はなく土性よろしからず、田方は残らず摘田(直摘田)である」といっている。
 また、天保8年、同村には上池、下池という二つの溜池があるが、これは神奈川宿の用水に使う溜池であって、同村では用いることはできないとしている。つまり天水田の沼田という状態であったのである。
 反当たり収量は天保14年、上田1石、上畑7斗といった低さであり、同年の耕地は田8反、畑29町2反、畑作は大麦、小麦、大豆小豆、粟、稗、菜を主とし木綿、煙草は自家用のみを作るとしている。肥料は灰糠、馬糞下肥などの自給肥料である。 同じく明細帳では「家業の間、男は薪を取り、女は木綿を取り、手織をいたし、家内の者着用仕り、残りの品を神奈川宿まで持出して売る」
と記されているので、これらの余業が唯一の現金収入となるのだろう。


 神大寺村
 神大寺村は六角橋村の西方にあり、大部分が平地であるがいくらか高低がある。 土性は悪く、天水場で旱損の害をしばしば受け、村高は正保86石、享保以後は108石、安政2年111石5斗8升1合、排地面械は明治6年(1873) 田8町7反、畑16町、戸数と人口天保14年17戸、安政2年26戸、161人、明治5年170人。
村名の由来は、近村小机村城主であった笠原越前守信為が、この村に寺を建て神大寺としたが、二代目の住職のときにこの寺を小机村に移して雲松院とした。しかし当村は、その寺の名をそのまま残して村名としたという。
 片倉村
 片倉村は神大寺村の西方にある。天保14年民家30戸、安政2年29戸、135人。耕地の土性は良くない。水田は少く、陸田が多い。村高は正保86石、享保以後は95石、安政2年99石4斗5升3合となっている。
 三枚橋村
 三枚橋村は片倉村の西方にあり、あいだに下菅田村の飛び地が入っている。平地は多いが、西方に戸数と人口は天保14年に20戸、安政2年22戸、137人、明治5年も同じく22戸で人口は148人となっている。 ' ,
 下菅田村
 下菅田村は三枚橋村の西方にあり、その北方は都筑郡と境を接している。
天保14年、村高497石、戸数105戸、人口432人。安政2年、戸数は85戸と減つたが人は490人と增えている。耕地面積は万治2年(1659)田16町4反、畑63町2反、反当収量は寛永21年(1644)上田1石Ⅰ斗、上畑7斗であるが、天保期には収最も多くなって上田1右5斗となり、他地域に比べて高い。
 村内には小山多く、谷合いに部落がある。畑勝ちで用水は天水に頼り、旱損の害を受けることが多い。肥料は下肥、糠、菜、灰などを使うというが、馬のE飼育をする家が多いので、厩肥も使用されたのであろう。
 当村は江戸時代以前は小机村の内であったが、小机落城の後、原野となっていたのを隣郡管田(上菅田)の村民が来て開拓したので、本村を上菅田とし、新開地を下菅田としたとの伝えがある。
 羽沢村
 羽沢村は下管田村の南方、三枚橋の西方にあり、西方と南方は保土ヶ谷宿帷子町に接している。
 村高は正保、天和の頃216石、享保17年(1732)261石、以後明治まで変らない。戸数と人口は天保14年66戸安政2年62戸、337人で、明治5年に415人。耕地面積は:天和3年(1683) 田14町6反、畑61町7反で畑勝ちの村である。作付は大麦、小麦、粟、大豆、稗:、ソパなどである。2019.7.29

Copyright 2013 Papa's Pocket All Right Reserved.