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郷土の歴史「神奈川区」21


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第3章 神奈川宿のころ(8)

村のくらし 
村々のようす

余業の発達

 区域内各村々の石高と戸数(安政2年)は1戸平均石高が7石以上の白幡、西寺尾の両村は鶴見川沿い平担村落の平均7.4石にほぼ近く市域内では農村らしい様相であったものと推定される部類に入る。
 そのほかの内陸部の各村は街道かせぎや各組の余業に頼る家が多かったものと考えられるが、詳しいことはわかっていない。羽沢村や下菅田村では文政12年(1829)にどちらも木挽きが4人いて山林をひかえていた村柄をよくあらわし、ほかに大工や屋根屋、杣(そま)、綿打ちなど、当時の農村が必要とした職人がいた。三枚橋、神大寺、片倉の各村も似たような様子であったものと想像される。
 さらに天保期に入ると各村には次のような農間商山林を渡世(余業)が生まれている。
〇三枚橋村 三次郎
農具類、世帯道具、酢、醤油、草鞋、草履、瀬戸物類、豆腐、菓子類、線香、真香
〇六角橋村 八左衛門
酢、醤油、塩、紙類、草履、草鞋、筆、墨、蝋燭(ろうそく)
 半五郎 上に同じ
 清五郎 水菓子
〇下菅田村 茂左衛門
農具類、世帯度具、酢、醤油、塩、味噌、豆腐、紙、墨、筆、蝋燭
同 平左衛門 
農具類、瀬戸物類、筆、墨、紙、線香、抹香草履、草鞋、水油
同 喜八 
農具類、世帯道具、瀬戸物類、筆、墨、紙、線香、抹香、こやし、酢
同 源四郎 
農具類、世帯道具類、醤油、瀬戸物、草履、草鞋、線香、抹香、水油、蝋燭
同 惣兵衛 
紙類、蝋燭、紙、筆、墨
同 太兵衛 
農具類、世帯道具類、酢、醤油、塩、筆、墨紙
定吉 豆腐、草履.草鞋、菓子
〇羽沢村 小右衛門
蝋燭、線香、抹香、菓子、草履、草鞋.
同 伝左術門 
菓子こしらえ
同 養助 
酢、醤油、塩、筆、墨、紙、草履、草鞋
同 長右衛門 
酢、醤油、塩、豆腐、草履、草鞋、線香、抹香、飴菓子、紙、墨、筆、蝋燭
〇西寺尾村 源左衛門
酢、醤油、豆腐、菓子
同 千代松 
紙、草履、草鞋
 これらを見て、小デパートのように多種類の品物を並べたいわゆる「よろず屋」がまずできて、村民の日用を足していたことがわかるが、すでにいくらかの専門化の傾向のできていたこともわかる。
 これらのなかには名主、年寄などの村役人クラスもいて、無高層の単なる小あきないではなく、 資力のあるものの店あきないへと変ってきている様子がうかがえるc街道筋でもないこれらの村で、草鞋を売る店の多いことは、すでに自家手づくりから脱却していたことがわかる。
 下菅田村では開港直前に鈴木政右衛一家が搾油をはじめ、開港後は茶の裁培がさかんにおこなわれるが、すでにこうした商品作物との関連がこの村の商店の多いことと結びつけて考えられる。
 これらのほか、村々を回って行商する者もかなりいたが、天保期には飴菓子類が圧倒的に多く、前記の店を構えての商売と違いその日暮らしの小あきないであった。羽沢、下菅田両村に各二人、六角橋村に一人いて、いずれも飴菓子を売っていた(上図左「行商の姿も見られる青木町台町」)。


街道かせぎ
  村々の余業としては、人足として或は馬をひいて東海道で運搬に従事することも多かった。 宿場である神奈川宿の43匹は別として、各村々の持っていた馬数は安政2年(1855)には次の通りであった(牛は宿・村ともなし)。
西寺尾村4匹、東子安村4匹、六角橋村9匹、神大村4匹、三枚橋村11匹、下菅田村26匹、羽沢村27匹(西子安、新宿、白幡三村はなし)
当時馬は、耕作にも使われたが運搬用として多く利用された。天保2年(1831)3月25日、上菅田村の金右衛門は生麦村名主関口藤右衛門から人足107人6分6厘2毛の賃金として金2両1分74文(一人140文)を受取つている。金右衛門は保土ケ谷宿役人の代理で、藤右衛門は保土ケ谷宿関係の人足役負担を金銭で支払ったもので、 金右衛門がこう-た人足の提供を請負っていたものとみられ、前記の上菅田付の馬26匹と多いことが目立ったが、 この村では街道筋での運送業に専業として従事する者の多かったことが推定される。ほかに羽沢の27匹を筆頭に三枚橋、六角橋の各村でも同じように馬を使って運送業に従事したものと考えられる(上図右「神奈川宿見付けの図」)。
街道村
 東・西子安村と新宿村では、東海道沿いの地の利によって商人や職人が多く住んでいて、東子安村の一里塚脇の大和屋善右衛門は茶店を出し、そばなど売っていて文化年代から幕末にかけて近辺村々のもめごとなどの寄り合い場所としてもしばしば使われている
 同じ頃西子安村には海保孫右衛門が醤油、松坂久治部'が米屋をしており、文政9年(1826) 4月に西子安村の七郎右衛門から醤油造の新規開業願書が代官所に出されている。このとき連印者として八郎右衛門が神奈川組醤油造人年行事と記しており、 当時すでにこうした組織があったことがわかり、それから9年後の天保6年には醤油製造人としては保土ケ谷宿の与右エ門とともに、 青木町に藤助、八郎左衛門後家なお、神奈川町林蔵、西子安村に勘左衛門、東子安村に半兵衛後家やゑがいた。
 ほかにこの三村にかけて文化・文政期には各種の職人がおり、左官、桶屋、下駄屋、鋳掛屋、綿打などが近隣村々の求めに応じて働いており、医者鳥山氏、針医幽庵などもいる。新宿村には釘屋平左衛門がいるほか、猟師で加持祈祷をする甚九郎がいて、 乳児の夜泣きを止めるのを頼まれており、 迷信の流行しやすい漁村の幕らしを反映している。
 天保14年(1843)5月の調べでは米屋と荒物を兼業する者が東子安村に4、西子安村に6、新宿村3の多きにのぼり、菓子類を売る店が両子安村に6軒ずつ、新宿村に3軒あるのが目立ち、これらを含めて東子安村に19軒、西子安村に7軒、新宿村に8軒の商店があった。さらに安政2年(1855)には西子安村の街道沿いに万屋、笹屋の二軒の茶店もあって、幕末の激增する街道通行量の影響がみられる。
 東子安村の大助は数え年2歳の小児角次郎を江戸芝居町の塗師栄次郎のもとに養子にやった。 しばらくして様子を見に養家を訪れたところ、角次郎はすでに死亡していたが栄次郎はこれを実家に知らせておかなかったのであわてて、養生のため里子に出してあると言いまぎらし、小児の身の上が気がかりな大助はさらにたずね回つて、実は死んでしまったことがわかり、栄次郎はひらあやまりで天保8年(1837)5月わび状を書いている(図版割愛)。この栄次郎は銀座の仏師として『関口日記』にしばしば出てくる栄次郎と同一人物であると考えられる。かれは文政から天保期にかけて生表村の安養寺本堂の彩色や各家の位牌彫り直し、蒔絵の仕事などを引受けこの付近を得意先として江戸から往複していた。支配の代官所が江戸にあって、宿・村の役人たちは村政などについて江戸馬喰町の公事(くじ)宿大坂屋治兵衛を定宿として江戸との往来も頻繁であった。神奈川宿の紀伊国屋三郎兵衛、西子安村海保孫右衛門、松坂久次郎など商用その他で毎月のように江戸へ出ており、江戸への奉公人やまた江戸から神奈川宿に身を寄せる宿場女も多く、街道筋の地域と江戸とのつながりは深かった。 2019.8.9

 
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