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郷土の歴史「神奈川区」22


23suzaki

第3章 神奈川宿のころ(9)

四  災害と普請

 地震や火事
 徳川幕藩体制下における農民は、常に天候と大災におののきながら生きつづけた。ことに地震は神の 怒りとしつつ、やがて耕地や用水路の復旧をあきらめて、結局は田畑をなげうち荒地のままに、貧農の群は日雇人足
となり江戸や城下町へ流人して、悲惨な運命をたどらざるを得なかつた。
 江戸の三大地震としては、慶安2年(1849)6月20日、元禄18年(1702)11月21日、安政2年 (1855)10月2日などで、その被害も家屋倒壊続出し物価騰貴を招き、民衆は生活をさらに窮乏化していつた。
 慶安2年の記録としては『読史愚抄』に「(六月)二十日戊申、武蔵国大地震大家倒、人多死」と書かれている。
 また、同年7月25日の地震も、「けふの地震により川崎駅の民屋140-50軒、寺亡宇崩頽(たい)し、其の辺四」五村民屋破れ倒れ、人畜毀傷する者多きよし」とあつて、神奈川付近も相当の大地震であつたことが想像される。


 元禄16年(1702)11月21日の地震については三沢方面にかけて宿々は家一軒もなく、通路は絶たりと書き、神奈川付近も大きな被害があつた。
「神奈川町青木町子鑑」にも、「是ハ元禄十六末十一月地震拝借」とある。
 慶安、元禄の両地震よりも都市直下型地震の典型と言われるのが、安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時頃に発生した江戸大地震であった。マグニチュードは6.9と推定され、何の前兆もなく激烈な震動を始めたという。
 江戸市中の被害は、全壊家屋17,444軒、死者数町民4626人、武士2031人、合計6,657人。火災で消失した面積はおよそ14町平方の広きに及んだ。
 神奈川宿の被害概況は、「南の方東海道品川宿強く、川崎宿ハゆるく、神奈川宿甚強く潰れ家多し、夫より小田原を限る」、「南の方ハ東海道筋ハ程ヶ谷辺まで神奈川宿は所々崩多く本牧、金沢、鎌倉、浦賀近辺所々くずれ」、『安政江戸地震災害誌』 2019.8.19

 
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