第3章 神奈川宿のころ(10)
四 災害と普請
普請 震災後、幕府は年貢や助郷の夫役を村々に命じたが、このほかに道路・橋・用水などの修繕も村の負担でした。しかし普請の費用が金十両を越えるような規模になると、一般の農村ではきまった現金収入もなく一度に現金が支払えないので、その時は代官所に願い出て幕府から現金を借り、五年から二十五年の年賦返済の方法がとられた。
道普請 農村では村内の道路の補修は、自普請といって村の費用で行なわれたが、主要街道については宿内の家並み続きの場所以外は、周辺の村々が掃除や普請の義務を負わされた。この夫役を掃除役、掃除する場所を掃除丁場という。神奈川町の掃除丁場は新宿村境から並木道の107間を大曾根村、次の75間を斎藤分、家並みに入ってから滝之橋までの672間は町内受持ちであった。しかし街道筋は交通量も多く、路面の破損も多かったので、大破のときは宿役人が願い出て幕府の直営工事となった。
寛保2年(1742)7月28日から8月朔日に至る大風雨は「六郷川増水故、品川海道芝辺出水、右大波打候節、川崎・品川辺に津波のごとく、諸人驚と云」がごとく、神奈川辺の東海道も損傷が甚大であったと思われる。
文化13年(1816)1月16日夜の大嵐で生麦から子安にかけての東海道が大破し、東子安村では浪除けの杭が延べ75間(約135メートル)、街道の土が延べ87間(約156メートル)崩れ、早速普請願いを出している。
文政10年(1827)2月に行なわれた道普請は、宿内の街道長さ32町31間(約3.5キロ)のうち、神奈川町288間(約520メートル)、青木町304間(約550メートル)に土と砂利が敷かれた。普請に使用された土の量はほ97坪3合(約1180立方メートル)、砂利は29坪6合(約180立方メートル)で、上は宿内のものを使川したが砂利は永19貫240文で購入した。日給永17文(およそ銭110文)の人足は延べ1371人で、総工費は金42両2分余であった。
橋普請 道普請とともに橋の普請補修も人切な仕事であった。とくに東海道は公用人馬の往来がはげしいので、大きな橋の普請は幕府の御普請所が管理し、宿村がこれを手伝うことになっていた。神奈川宿では滝之川にかかる滝之橋と神無川の土橋がこの適用を受けた。
滝之橋は寛政2年(1795)以降、大体10年ごとに大工事が行なわれた。
文化十三年の普請は石垣の組直しと板橋の掛替えを同時に行なったものである。文化10年の地震で青木町側の石垣がゆるみだし、同12年には橋脚・欄干・踏板など各部分の損傷もひどくなったので、宿役人から代官所へ御普請を願い出た。12月金38両余の見積書を提出して許可され、石垣は文右衛門、橋は善右衛門が工事を請負った。翌13年7月25日には仮橋ができて本橋のとりくずしが始まり、8月12日に完成した14日に開通の予定であったが、御普請所の御出役が出張中のため検査が受けられず17日以降となった。22日年寄役弥平二が江戸まで行って工事代金32両と永80文を受け取り、28日には文右衛門と善右衛門に合計金41両と銭300文が支払われた。この差額金3両余りと御出役に酒代として出した金3両は青木町と折半し、諸掛りを加えて神奈川町の負担は金4両と銭5貫23文となった。この9割は西之町・仲之町・九番町・十番町・小伝馬町・漁師町の6ヶ町が、残りの1割を荒宿町と新町が同額を負担した。前者の割当は各町金2分2朱と銭617文ずつ、後者は金2朱と銭806文ずつとなった。
文政9年(1826)には鎌倉で演習のため大砲が通ったとき、青木町側の橋台が振い出し、その後のたびたびの満水で石垣が水を含んで危険な状態になったので同11年7月、代官所へ御見分を願い出た。このとき滝之橋は板橋で長さ7間半(約13.5メートル)横2間半(約3.6メートル)だが幕府の修理は3年後の天保2年1月の大火で、御高札場とともに橋が焼けたあとようやく工事にかかり8月に新橋が完成した。そのあいだは仮橋で通行し、工事は江戸の岡田次介組が実施している。
神奈川町荒宿の土橋は文政元年、9年と掛替えたが、天保5年(1844)に大破し御普請願いを出している。新宿村と西子安村との境の入江川に掛かる土橋も文政7年11月に御普請が行われ、近村から人足が出ている。
保土ヶ谷宿の帷子橋と古町土橋の修繕にも各村に人足が割当てられていた。安政3年(1856)保土ヶ谷宿の帷子橋と古町土橋の普請には橘樹・都筑郡の59ヶ村に人足1838人が要求され、現区内の四寺尾・東子安・西子安・新宿・白幡・六角橋・神大寺・片倉・三枚橋・下菅田の外村々に合計343人が割当られた。
このように幕府直営の工事といっても、地元にはいろいろな負担が多かった。2019.8.28