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郷土の歴史「神奈川区」24


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第3章 神奈川宿のころ(11)

五 御菜浦の漁業と海運

 江戸時代の神奈川宿は港町としての一面を見のがすことはできない。海は交通の場であるとともに漁業のさちをもたらし、神奈川宿ばかりでなくその沿岸の土地と背後の村々の村民の一器らしに強い結びっきをもっていたものである。*御菜浦<おさいうら>というのは、 前近代においては、城下近郊にある漁村などを指定して海産物を献上させたり、その他海上における夫役を負担させる代わりに、漁業などに関する特権を付与することが行われていた。その指定された漁村が御菜浦である。
内海または内湾 
神奈川の前面の海を総称して内海と呼び、あるいは内湾といっていた。相模、武蔵、上総(かずさ)、下総(しもおさ)、安房(あわ)の五つの国にとりかこまれた湾で、 だいたいのちの東京湾と同じところで、浦賀水道から北を指した呼び名であった。湾の奥に当時の首都江戸があったので、 幕末に来航した。へリーIなどの外国人は江戸湾と呼んでいた。
漁村の発生
 内海の漁業はすでに後北条時代からおこなわれていたことが知られているが、産業と呼ばれるような漁業が発達したのは、徳川家康が大正18年1590)8月、江戸に入ってから後のこととみらている。家康によって江戸を中心として政治、経済がはじめられ、のちに、江戸八百八町といわれ人口100万を数えるような都市化の道をすすむようになって、消費が増えるにつれて食糧としての魚の需要が高まったことと、全国的な漁業の発達につれて肥料としての干鰯(ほしか)が大量に求められるようになったためである。


浦と磯村百姓村
 内海の沿岸には「本猟場」と唱える浦と、磯村百姓村とがあった。本猟場とは漁業を生業として暮らしている村で、神奈川浦(神奈川漁師町)や新宿浦がそれであった。東子安村や西子安村は磯村百姓村であった。磯村百姓村はあいたい自村地先の限られた海面で小魚や貝類、海藻類を取ることを許されていた。網漁は浦浦の猟師だけができるようになっていて、 沖合いの漁場を各浦の入会いとして共同で使っていた。
御菜八ヵ浦
 各浦々は幕府の御菜肴の献上や浦御用の役を負担させられていたが、献上肴のもっとも多かったのが佃島、深川漁師町と御菜八ヵ浦といわれる本芝町・芝金杉町・品川漁師町・大并御林町猟師町・羽田猟師町(以上いずれも今の東京都)・生麦村(現鶴見区)・新宿村・神奈川猟師町であった。 とくに御菜八ヵ浦はときに組合とも称して緊密な利害関係をもち、内海漁村の諸間題にっいて幹事的な活躍を示し、一面では特権をもふるっていた。
 江戸時代上期の寛文7年(1667)8月の神奈川浦およびその近接の漁村の規模は次のようであった。
〇神奈川浜
家数45軒、人数350人、内水主40人、猟舟27艘、内19艘本御役舟、8艘内3艘5大力船
〇神奈川の内帷子
家数9軒、内2軒は居屋敷、人数27人、内水主9人、船数9艘、内2艘五大力船、7艘茶船
〇新宿村
家数52軒、人数240人、内水主42人、猟舟20艘、内6艘御役舟
〇生麦村
家数25軒、人数100人、内水主36人、猟舟18艘、内6艘御役舟
 このほか神奈川浜では幕府に収める御菜を1か月に3度ずつさし出し、新宿村と生麦村とでは両浜合わせて1か月に3度ずつさし出していた。2019.9.7

 
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