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郷土の歴史「神奈川区」26


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第4章 黒船来る(2)

横浜村
 当時の横浜村は「村内に小湊あり、土俗すまという、亦周勘の湊という、方67丁、土地の漁舟掛り場なり、湊口に弁天あり、祭礼の日には近郷より参詣群集なし諸方より渡海するといゑり、常に渡海をきんぜりといふ」ところであった。
 この無名の一漁村にすぎなかった横浜村が外交交渉の表舞台に登場したのは、応接場にたまたまあてられたからで、そのことが、はからずも文明開化の発祥の地となったミナトヨゴハマに変貌する伏線となってしまった。
応接所きまる ペリー来航の目的は和親条約の締結にあった。すなわち日本の開国にあった。そのための日米会談の場所をきめることで、なかなか折合いがつかなかった。幕府では前年の会見地浦賀付近を適当と考えていたが、ペリーは首府の江戸でと決心していた。それが江戸の近い横浜村に決まった。
 幕府の立場は異人の江戸上陸厳禁であるから、浦賀を主張していたが、ペリーの江戸湾乗り込みの威嚇運動に譲歩を余儀なくされた桔果であった。が、またそれは江戸湾に乗込んで退去しない異人の決心をさとった応接掛全権林大学頭が幕府の方針を貫くため(異人の江戸上陸拒絶)の譲歩であり、その命をうけた香山栄左ヱ門が横浜を会見地とし異人の江戸入りをくいとめた苦肉の策であった。


 ぺリーが横浜を承諾したのは江戸湾内の基地(小柴沖、夏鳥)に近く、また東海道の宿駅神奈川にも近く、錨地に適していたからであった。
 応接場警備を命ぜられた小倉藩の鈴木彦之進の手記にはペリーが横浜に同意したことについて、戦略上から有利な地形であるからとの観察を下している。「此地は、海岸丑寅(東北)に向ひて、沙々たる原野にて、東は辰巳(南東より南西山にてとりかこみ、凡拾町余りの広野にて、海岸のみ打開けたるはかりなれは、実に彼に利あり、我には其の害少なからず、しかのみならす、人数布列之後面には堤ありて、其下は入江にて、これを背面に帯たれは、人数進退ともにあらはに見られ、覆伏の憂ひなき地なれは、望み得たるなるへし」という。
 後年、神奈川が開港場に指定されたとき、横浜は神奈川のうちであるとの理解のもとで外国人居留地にしたが、この時は、幕府側の判断が外国側に一歩先きんじていた、というのは、その地形は少しの手をくわえれば、長崎の出島の如く三方ともに水にかこまれた地形になるからであり、幕府は運河をひらいてそのとおりにした。
 応接所は日本側では通称御仮屋といい、アメリカ側では条約館とよんだ。 現在の神奈川県庁構内にある。 2019.9.23

 
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