第4章 黒船来る(4)
2 ハリス来る
神奈川開港 ペリーの押し付けた日米和親条約(開国)を契機に、ついで来日(下田在留)したハリスによって、安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約がむすばれ、条約面での開港場は神奈川に決まった。日米会談の舞台は下田から江戸、江戸から神奈川へとめまぐるしく動いた。ハリスの提唱した江戸品川の開港を神奈川(横浜)に変更することを主張したのは岩瀬忠震だといわれる。開港の実施日は安政6年6月2日(1859年7月1日)。
幕府は対外交渉の上から神奈川開港をたてまえとし、対外紛争をおそれて本音は横浜を開港場とし、横浜は神奈川の内であると強弁して都市計画を進めた。例によって好奇心の強い江戸の町人たちは瓦版で、つぎつぎに新しい港町の宣伝に一役も二役もかってでた。 『御貿易場 (おんこうえきば)と題する一枚刷で、いわば横浜の子定図(上の画像)、それには日本人街(そこへ出店の有力商人名記載)運上所、そして異人は屋敷、さらに遊女町などが記されている。安政6年1月ごろから売り出されたもので2月、3月と開港の期日に近づくにつれ詳細になっていったし、はじめは「武州神奈川」とか、「東海道神奈川在」、あるいは「神奈川横浜」とか、神奈川の名を表題に出していたが、それも除かれて開港の月、6月には「御交易場所附并諸商人軒数明細書」と表題した小冊子になり初期横浜商人名が列記される程になった。
予定図はあらたに、地図として売り出された。最初の地図は「安政6年夏神奈川表横浜御開港之図」、「横浜御開地明細之図」、「御免御貿易場大絵図」などで、場所附と一対をなすものと考えられる。場所附は8月、「御免貿易場明細書」 と題した小冊子でその使命を終つた。
開港場ヨコハマ 安政5年10月、外国奉行は神奈川奉行兼帯を命ぜられ、開港場建設のため土地見分を開始した。宿舎は吉田新田勸兵衛宅、 ハリスは神奈川を主張して譲らず、 幕府側は横浜村を固守し、 対外的には開港場は開港の期日まで未定にしておくことで了承を得たが、 実際には幕府側では外国奉行の意見を入れて横浜村に都市計画をすすめた。
横浜でむすばれた日米和親条約が神奈川条約とよばれているように、当時、横浜はただの農漁村で、神奈川は東海道の宿駅、 アメリカが神奈川を主張したのももっともなことである。
安政6年3月、外国奉行は戸部村願成寺を宿舎と定め、開港場施設の具体化につとめた(上の画像)。奉行所、運上所、波止場、役宅、新道、橋など重要な施設は開港の期限の6月にはほとんど完成した。その間わずか4ヵ月にもみたなぃ。
奉行所は戸部村の高台、運上所は横浜村の海岸、運上所をはさんで波止場、役宅は奉行所と運上所の周辺、新道は神奈川宿と保土ケ谷宿のほぼ中間の芝生村から海岸ぞいに、新田(岡野新田、平沼新田)に架橋し、丘を開いて戸部へ、戸部からは吉田新田に架橋(吉田橋といい、関門を設けた、関内の称はこれからおきた)、これが横浜への表玄関となった。横浜道という。
横浜村の海岸のほぼ中央、かつて日米和親条約(神奈川条約)調印の記念の地(応接所跡)に設けた運上所を開港場の中心とし、その北の海岸に外国人用(東波止場)、日本人用(西波止場)の波止場2カ所をるくった。長さ60間、幅10間の石垣、水上1丈3尺、その上へ芝土手高さ5尺というものであった。運上所の西を日本人街、東を外国人街(居留地)とした。
日本人街は横浜道をへて、吉田新田を渡って最初の片側町を1丁目、東折れして2~5丁目を設け、大通(道幅10間)をはさんで両側町を形成した。大通を本町となづけ、その裏通が南で南仲通、弁天通、北を北仲通、海辺通の二通としたのが開港はじめの町割で横浜町(横浜5ヵ町)と称した。面積約4万坪。
また運上所わき、日本人街と外国人街とのあいだに横浜村の字をとって駒形町とし、役宅および貸長屋をつくった。2019.10.17