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郷土の歴史「神奈川区」29

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第4章 黒船来る(5)
2 ハリス来る(2)

 ハリスは条約実施の日、ミシシッピ号で神奈川へ上陸、午前10時、本覚寺墓地にある大木の頂上に米国旗をかかげ、 正午を合図に国歌をとなえて日米和親を祝福した。
 本堂は西洋式にして「本堂内陣、奥を板にて全店紙を張、前二.間の間を白縮緬と緋ちりめんとを以、幕を戸帳のことくさけ、曲象を据候」という。食事のときは「前に長さ四尺計、高足の膳を置、其上へ羅紗の如き模様付候を敷、ギャマンの器皿に酒食を盛並ぺ」たという。
 この本覚寺には領事ドールと書記生ヴァンリード、通訳ジョセフ彦の3人と上海からつれてきた中国人の料理人が1人。間もなく日本人の給仕や番人4人を雇いいれた。開港当初の外国官吏の生活の一面をしる。
 イギリスは浄流寺、 フランスは慶運寺、オランダは長延寺。またアメリカの宣教師たちの宿舎には成仏寺があてられた。へポン博士も来日当初はここに仮萬した。商人は横浜に住んだ。
 神奈川と横浜開港当初、来日した外国人は官吏と商人と同国人でありながら、一方は神奈川に、一方は横浜に住む、このことから、横浜に住む商人が本国に発信、あるいは受信の場合、条約面の神奈川を用いることがあるから、文面では神奈川であっても実際は横浜であったりする。幕末(文久2年)、外交官、宣教師ら、すべてが神奈川を引払い、 横浜に移住してからも横浜が神奈川であったり、 神奈川が横浜であったりした。
 アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)で「外国領事は現在人口10万をかぞえる神奈川対岸の横浜の町に在住しながら、 公用の報告などの場合は常に発信地を神奈川にしていたのである。」 と証言している。
 もっとも幕府も、横浜に奉行所を置きながら神奈川奉行所と公称したのは外国側の体面を重んじたからで、 これもたてまえと本音のつかいわけか。
 外国官吏が横浜に移ったのは、翌年のオランダが最初で開港4年目の文久2年(1862)にはことごとくが移った。それでも「神奈川」とする慣習はつづいた。

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 神奈川のへボン 幕末明治初期の日本人のあいだでは、へポンを平文、協文など、漢字にあてている。そのうちで最も広く用いられたのが平文で、彼の編さんした和英辞典『和英語林集成』には彼自身がつかっている。
 ヘボンが聖書の翻訳 和英辞典の編纂に努力を傾けたのは横浜居留地39番館新築移転した文久2年(1862)のころからで、ほぼ日本語が了解できた。
 それまでは神奈川の成仏寺(上図左側)に他の宣教師とともに仮寓し、医療のかたわら布教のための日本語の研究に取り組んでいた。成仏寺での生活は彼がラウリーに送った数々の手紙によって判明するが、それは主として宣教にかかわりあるもので、在横浜の居留外国商人との交渉については記されていない。
 ヘボンをはじめとして来日した宣教師たちが、日本人に布教するためには、まず日本語を学ばねばならなかった。来日後、ヘボンが日夜苦心したのは日本語教師をみつけることであった。万延元年(1860)2月ごろ待望の日本語教師がみつかった。ヘボンの日記には「32歳の医者で、なかなか学識のある日本人です」とほめたたえている。
 へポンに日本語教師を紹介したのは、 神奈川宿新町のつき米用三河屋徳兵衛宅裏に隠宅をかまえている勝見利 (すぐるけんり)という老人で、その日本語教師を老人の子としてへポン宅に小使の名目で住わせた。 へポンの日記には「波(日本語教師)は役人の疑惑を刺激しないよう最大の注意を払つて、変装してきたのです。そして彼を一雇人としてわたしの家に住わせました」 (へポン書間集)と記し、紹介者および日本語教師の名前は記されていなぃ。へポンと老人とのむすびつきはあきらかでなぃ。
 へポンの最初の日本語教師の名は本多貞次郎。へポンの日本語修得の基礎は、貞次郎から学びとったものであろう。
 勝老人の知人に江戸深川に店をもっている伊勢商人竹口喜左衛門がいた。喜左術門が勝老人を仲介にし、 へポンをとおして外国商人と商談する目的で来浜したのは文久元年正月の中旬で、喜左衛門の手記(横浜の記)によって前述のへポンの日本語教師の名が判然とした。手記には「本多氏は越前の医師、年33、本職医、東都に出る。蘭人(らんじん)の医学に志し深し。依って老人(勝見利)の子として大医へボンの小使に入て修学す。へボン子、日本学を厚(く)望む。相互に教へ教へられたり。愛すべきの仁物、学力、才力共に浅からず」と初対面の印象を記している。 2019.10.23

 
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